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Channel: AN現代針灸治療
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中世のお灸事情

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お灸に関する、とりとめのない知見を以下にまとめてみた。


1.排膿のための鍼と灸
 
血が停滞して体内に熱をもって体内に腫瘤形成される。これを取り去るには、内科的には湯液治療だが、鍼灸治療的には、鍼による皮膚切開と、打膿灸による排膿の方法が行われていた。

1)皮下に腫瘤の存在が明瞭で、排膿できそうな場合
→鋒鍼(△型に尖った鍼。三稜鍼)や火鍼(鋼鉄の太鍼を火で加熱)で皮膚を切開し、排膿口をつくって膿を外に出す。
 
2)皮下に腫瘤がない場合
打膿灸で排膿口をつくる→火傷部に膏薬を貼って治癒を遅らせる。4~6週で膿を出し尽くす。
すなわち傷口内部に砂や木片が残っているとなかなか治癒しない。同じく、傷部に異物(「無二膏」など)を接触させていると、治癒が遅くなることを利用している。


2.家伝の灸
 
家伝灸とは、ある一個人が自分の病気を灸で治した経験から,同じ方法で同一の病気を治そうと他に施し、それを子孫が伝えているものである。家伝灸の多くは打膿灸だった。わざわざ遠方まで打膿灸されに出向くこと、熱さに耐えること。こうした苦労を克服したからこそ御利益もあるという思いだったろう。要するに神仏にすがる思いと同種のものであった。。
以下は代表的な家伝灸

1)中風予防の<熊ヶ谷の灸>膝眼穴 
目的:中風予防の打膿灸取穴
刺激法:大豆倍大にして一ヶ所三壯、打膿灸(すいだしきゅう)。
実施日:六月一日の二日の2日間のみ。治療代は一人2~3円。この2日間だけで6万円(現在の価値では6千万円)があった。小田急の鶴川駅はこの灸のためにできた。

2)面疔に対する<桜井戸の灸> 合谷穴 
目的:面疔。昭和 28 年頃は副鼻腔炎も
方法:手三里と合谷に 30 壮~ 100 壮灸する。これを1日3回やる。面疔の治療は、化膿を待って切開するのか常で、したがって手の一穴(合谷)へ灸をすえれば必ず口が開いて排膿できるという。膿の出る口を開けるには、吸い出し膏薬を貼る。(代田文誌著『簡易灸法』) 痛みが出たら、再び合谷に数十~二百壮連続で、痛みがとれるまですえる。

※面疔:目や鼻周囲にできた黄色ブドウ球菌感染症。常在菌である黄色ブドウ球菌が顔面の毛孔から侵 入し、毛嚢炎が起きた状態。抗生物質が有効。面疔は強烈に痛んだり、悪寒発熱など全身症状の出る こともある。軽度な面疔であれば、排膿後2 週間ほどで自然治癒する。病巣部である眼窩や鼻腔、副 腔などは薄い骨を隔てて脳と接しているため、抗生物質を服用しないと髄 膜炎や脳炎などを併発 し 手遅れになることもある。沢田健は面疔で死亡した。
 

3)眼病に対する「四つ木の灸」臂臑  
上腕外側、臂臑穴行う打膿灸。眼病に効果あり。

 


3.お灸の壮数について
   
お灸の壮数は、ほとんどが3・5・7壮と奇数になっている。これは古代中国において奇数が陽の数字としての意味をもち、灸をすえるという行為事態に「陽の気を補う」 という意味が込められたことを反映している。(鍼灸甲乙經)
お灸の壮数で、病が深く浸透している者は、数を多くすえる。老人や子供では成人の半分位の量に減らす。扁鵲の灸法では、五百から千壮に至ったというが、明堂本經では鍼は6分刺し、灸は3壮と記し、また曹氏の灸法では、百壮することも五十壮することもあった(千金方) ということで、当時としても多様な考え方があった。

お灸のすえ方として、江戸時代頃までは、打膿灸と多壮灸が主流だったらしい。しかし現在の状況では、両者とも行い難い方法になってしまった。せんねん灸やカマヤミニは、従来のお灸の代用としては役不足であろう。  

4.施灸時の体位

1)紐を使った取穴 
取穴を大仰(おおぎょう)にする演出で、この類には次のようなものがあった。患者は、おそれいったことだろう。
 
①騎竹馬の灸→第10胸椎の両側各5分のところ。 灸30壮。癰疔などの悪性潰瘍を主治する。 乳腺炎等。
②四花・患門→呼吸器疾患、心臓疾患  
③脊背五穴 
④五処穴など 

2)施灸体位

現在では、鍼も灸も仰臥位または伏臥位で施術されることが中心となったが、残された古文書をみると、座位で背中にお灸した図を見る機会が多い。深谷灸法にあっても、「治療は座位で行なう。座位ができない場合は寝て取穴する。当然ツボの位置はずれる。」とある。

座位で鍼する方法は、柳谷素霊「秘法一本鍼伝書」の五臓六腑の鍼で紹介されている。
鍼でも灸でもこれは背部筋を弛緩した状態で鍼灸刺激するよりも、自重を背筋緊張で自重を支持して鍼灸するのでは、後者の方が効果が高いことを知っていたのだろう。
 

中国の宋代とは、糖につづく時代で、我が国の鎌倉時代に    
 だいたい一致する。上絵は打膿灸を行っている。

     

椅座位での足三里の灸

 会陰への灸

 


座位で、台の上に両肘をつけて背中に灸する様子を描いているが、肩甲骨を左右に開くことで大・小円筋や大・小菱形筋もストレッチさせて灸していたことが発見できて、今日でも参考になる。

 

3.お灸のつぼの故事
今日でのお灸は、半米粒大の艾炷で、1カ所3~7壮程度が標準とされているが、昔は数百といった多壮灸が普通だったのかもしれない。ということは、灸治療の効果も、今日の常識以上の効き目があったのではないだろうか。

1)足三里 

「千金翼方」では「30歳以上で頭に灸をするときは40歳で足三里にもお灸をしないと気が頭に上って目が見えなくなる」書いてありる。それが後の「外台秘要」では「人、四十にして三里に灸せざれば目暗きなり」書かれてあり、文章の最初の「灸頭」 が抜けていた。それ以後「年をとったら三里の灸をしなければならない」と伝わってしまった。もともと足三里の灸はのぼせを下げるための意味付けが強かった。(一本堂学術部「 江戸の鍼灸事情と養生法」) 
   
頭寒足熱が理想の健康のサインだが、これが逆転して頭熱足寒になると不健康になりやすいと昔からいわれていることである。頭部より足部の気温が高いほうが快適であり、ゆえに床暖房がもてはやされる。就寝時、足冷でアンカを使うことはあっても、頭は掛け布団の外に出ていてもさほど苦にならない

2)膏肓
   
「千金方」で初めて膏肓穴が登場した。古い文献に膏肓は記載がない。膏肓の名前の由来は、「病膏肓に入る」の故事より。<晋公の病はすでに膏の上、肓の下にあるので治療できない>と医師の緩は語ったことから。
   
しかし孫思邈(ばく)は、当時の医療では膏肓の取穴がきちんとできなかったからであり、このツボは万病に効く。600~1000壮すえることで、自分の身体補養になると言っている。  600~1000壮という壮数は、「医心方」にもあって、医心方中最も多い壮数となっている。

3)関元

南宗の時代の「扁鵲心書」では、罪人でつかまっていたが、90才過ぎても快活で1日十人の女性と交わっても衰えること
がなかった。刑吏がその理由を聞くと、夏から秋への季節の変わり目に、関元に灸を千壮すえているだけだと言った。しばらくこれを続けていると、寒暑をおそれくことがなくなり、何日も食事をしなくても飢を覚えることがなくなったと返答した。関元へのお灸は、百壮単位で行うのがよいらしい。


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