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石坂宗哲が考察した営衛と宗脈 Ver1.3

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本稿は、ブログ「営衛と宗気のイメージした解説
https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=6b294c3841433e83f3a321c4b291a6df&p=1&disp=50
の後編に相当するものです。


1.石坂宗哲の時代的背景と年譜

甲府の鍼灸医家系の三代目として1770年に生まれた宗哲は、年少の頃から伝統的な鍼灸を学んでいた。青年時代の状況は記録に残っていないが江戸で鍼灸医として働いていたらしい。この功績が江戸幕府に認められ、1797年弱冠27才にして甲府の西洋医学校を創設するよう命じられ、鍼科顧問になった。31才で再び江戸に呼び戻され、寄合医師(江戸幕府への通い医師)、鍼科奥医師(将軍家の診療にあたる医師)、法眼(医師頂点の称号)と出世の道を歩むようになった。 
 
宗哲の特異な背景としては、幼少時(3才頃)杉田玄白らの『解体新書』刊行という時代で、西洋医学というものに触れる機会があったことと、42~46才に当時の医学・博物学の知識人シーボルトと交流した環境が関係しているといえだろう。シーボルトは日本の鍼灸を、宗哲からの話を聴くことで知った。宗哲が西洋医学を盲信する医師であればシーボルトは興味を示さなかっただろうし、東洋医学オンリーの医師であれば西洋医学との接点を見出し難く、シーボルトとの対話は成立しなかっただろう。シーボルトが理解したわが国の鍼灸医学は、ほぼ石坂宗哲が説明した内容だった。  

1770年0才 江戸後期、甲府に石坂宗哲生誕。代々鍼灸医の家系を継ぐ。
※27才 甲府医学所(西洋医学校)設立。鍼科創設。
1801年31才 江戸に戻り、寄合医師になる。
1804年33才 奥医師(鍼科)となる。
1812年41才 法眼となる。
         この頃から蘭学と漢医学(東洋医学) の漢蘭折衷を模索。  
1822年~1826年 42~46才 ドイツ人医師シーボルトと交流
         自著『鍼灸知要一言』などをオランダ語に訳し、シーボルトに渡す。
         シーボルト帰国後、石坂宗哲は独自の理論を石坂流と命名。独自の鍼灸理論を追究した。
1826年 『知要一言』・『医源』・『宗栄衛三気弁』・『鍼治十二條提要』刊行。
1841年 『内景備覧』刊行。
1842年 72才 死去

 

 

2.伝統医学を刷新させるため西洋医学知識を利用

三代目の鍼灸医としての家系に生まれ、幼少の頃から漢方医学に浸かって育った石坂宗哲は、西洋医学に惹かれる一方、先祖代から続いている伝統医学を価値のないものとして捨て去ろうとする考え方にも同意できなかった。それどころか、中国古代の医学書のよく分からない部分をオランダ医学という別な角度から眺めることで、漢方医学を発展できるのではないか(知要一言)と考えた。
 
その中核的内容として、人体を巡るもの(伝統医学では十二經絡)の実態についてだった。具体的には脳と脊髄、脳脊髄神経、及び血管系に着目した。
その一方、いわゆる伝統理論に対する批判は痛烈だった。精神・宗気の道(めぐり)を見失って、陰陽五行という考えが唱えられるようになった。栄衛・経絡の真実を見失って、十二経脈の流注が一つながりにつながっているという考えが現れた。末流に登場した誤った説を信じて、源流にあった真実を捨て去ってしまったのだ。(『宗栄衛三気弁』)

 


3.営衛と動・静脈

松本秀士:動脈・静脈の概念の初期的流入に関する日中比較研究 或 問 WAKUMON 59 No. 14(2008)pp.59-80   より

1)解体新書にみる動静脈
 
動脈・静脈という訳語が与えられたのは「解体新書」(1774)からである。ハーベイの血液循環説発表は約150年以前のことだったので、解体新書には現代医学でも通用する血液循環のしくみ(心臓→動脈→小動脈。小静脈→静脈→心臓)という循環があることを証明した(1628年)。またその直後にマルチエロ・マルピーギの顕微鏡発明に伴い、毛細血管も発見された。これらの知見の後に、解体新書がわが国に入っていきたことは幸運だった。西洋医学でも17世紀頃まではローマ時代の医師ガレノスが唱えた血液巡行が信じ続けられていたからである。
 
ところで「脈」とは血の流れる管という意味で、動脈との名称は、<脈うつ脈管>であるところからで、その一方脈の打たない脈管は血脈(けつみゃく)と命名した。血脈との名称は、伝統医学でいう血脈(血液の流れる管、血管)をそのまま流用した。なお静脈と命名されたのは1800年代からであった。
 
杉田玄白は、人体をめぐる4種類のものは、動脈、血脈、筋、神經以外にないと記していて(『医事問答』1795)、十二經絡の存在を疑問視し、十二經絡とは動脈や血脈のことではないかと推察した。

 

2)石坂宗哲の営衛の考え方(『医源』より)
 
宗哲は心臓→動脈→細動脈→毛細血管→細静脈→静脈→心臓という循環は理解していたらしい。「心蔵は血脈を出入させている。これを栄衛と呼ぶ」とある。


①動脈とは‥‥

拍動している血管のことを栄とよび、中を動脈血が整然と進み、拍動して止まることがない。進むにつれて枝別れして、太さにより経絡・別絡・孫絡・支絡・細絡の区別がある。
内部から始まり、外部に向かう。
以上の内容から宗哲は、經絡はすなわち動脈血管と考えていたことが理解される。

 

③静脈(血脈)とは‥‥

「衛は拍動せずに入っていく。脈外を進み、途中各所に節(弁)がある。栄と同様に経絡・別絡・孫絡・支絡・細絡がある。外から始まって内に向かう」とある。
動脈と異なり、静脈の解釈は現代解剖学とは異なる。脈外を進むというのを、血管外と理解すれば静脈ではなく、これは<衛>の定義になる。
衛は栄の終る所から始まり、逆行して胸腹部に集まり、心臓の右側に入る。起始部は絡であり、その終点は経になる。つまり、栄と衛は互いの始まりと終わりの所で繋がり、経絡を受け渡し合っている。環に端がないのに似ている。以上の記載は、現代でいう静脈の走行そのものである。末梢から始まって心臓に向かうほど太い血管になるという点も矛盾がない。
 
 
衛は血管外を走るという点を考察してみた。人間は自分の上下肢や顔面などで外から皮膚を見ると処々に青黒いパイプのような血管を散見できる。これは表在静脈で中には当然静脈血が流れている。ここを刃物で切ると動脈血管ほどでないにせよ出血するだろう。
一方、このような表在血管部位でない場所を刃物で切っても、やはり出血する。これは皮静脈を傷つけた結果であるが、宗哲は皮静脈の存在を知らないことで、血管外と判断したのではないだろうか。このことから推察するに、表在静脈は栄が流れる部、すなわち動脈と理解したのではないかと考えたと思った。
 
外から見て視認できる血管は、表在性なのでほとんどは静脈なのだが、これを動脈と解釈することで、営衛と動静脈循環の整合性を導いたと思われる。

 

 
宗哲は、表在静脈を「動脈」とし、皮静脈を「静脈」とした?

 

4.宗気と脳脊髄神経

1)宗気は神経線維中を流れる水液のことか? 

石坂宗哲は、脳脊髄神から起こり、12対の脳神経、31対の脊髄神経の末端までの神経伝達の物質を宗気とよんだ。ちなみに<神経>との名称は杉田玄白らの『解体新書』で初めて用いられたzenew(オランダ語発音ゼニウ。世奴と表記。英語のnerve)を神経と和訳した。神気と経脈とを合わせたことに由来している。神経との和訳は、中国語にもなった。
nerveは中国語でも神経である。

「宗気は純白の水液にして脳髄より出でて一身に周行する」とある。純白というのは、神経線維の色調のことをさしていると思える。水液の意味は不明だが、神経線維を植物の茎に例えれば、茎の中の細い管を流れる水液のことを指しているのではないかと想像する。
要するに神経というパイプの中を、宗気という水液が流れている。

 

2)脳髄―精神―宗気論 

宗気が正常に生成され、身体をくまなく行き渡ることで、健全な精神が生まれる。精神は、古くからある中国語で、精+神の複合語である。


①神とは大脳皮質機能のこと

ここでいう神とは神様のことではない。神とは寒温を覚え喜怒哀楽の情を起こし、臭味を知り、事物を辧(わきまえ)る等、己に具えて己の自由となるもの。要するに大脳皮質の健全な作用を意味する。正常な意識がなくなった状態は「失神」、意識はあってもそれが正常でなければ「狂」である。

 


②精とは命の炎のこと 

精とは生命の元である。例えれば命のロウソクの炎のことをいう。両親のもつロウソクを炎を、その子に分けてやることで新しい生命が誕生する。誕生後に空気や飮食の力を借りて、心身が成長するにつれ、ロウソクの炎が大きなものになる。成人になると、ロウソクの火を新たな生命の誕生のために分けてやれるようになる。しかしやがては病や老化により、自分のロウソクの炎を保てなくなる。これが死である。

 

5.鍼の臨床

1)総論

石坂宗哲は、<定理>すなわち真実を追究した学者として有名だが、具体的な治療内容については、あまり記録が残されていない。少ないが治療原則として次の内容が知られている。 

①鍼の効能には、宗気とした神経系を調整することを補法、瀉血(静脈を切って鬱滞している悪血を取り除く)し、営衛の気を流通させるのを瀉法と位置づけた。(『鍼灸茗話』)
②すべての病気の本質は神経のマヒ(神経筋肉内の痺症)であり、鍼は神経や筋肉のマヒをとくものであるから、鍼はほとんどすべての病気に適応がある。
③極細の銀針を用いて、補法手技を多く使う。温和な手技で丁寧に時間をかけて必要な治療量を与えることと、背中を治療する場合、一般の鍼灸家なら正中線の外方1寸5分の輸穴や膀胱系二行線を主として治療するところだが、石坂宗哲は正中線から外方5分の夾脊穴上を好んで治療した。宗気の放散する起始点として、脊柱傍への刺激は広い適応がある。

 

2)治療の実際

石坂宗哲自身の鍼治療技術が明記されているものは実存しないので、現在となってはどのような治療方法が当時の石坂流の鍼にあたるのかは確定する ことはできない。
現代では町田栄治氏が第一人者とされていて、専門雑誌への投稿や著作「石坂宗哲流鍼術の世界」などの労作が知られている。町田氏の著作は入手できなかったが、後藤光雄氏の「石坂流鍼術の特質」をネットで発見できたので、その内容を簡単に紹介する。なお後藤氏は町田氏の生徒にあたる方である。

①神部の銀鍼、寸5または2寸を使用。
②誘導刺
誘導刺(杉山真伝流の管散術で、切皮したまま管ごとトントンと繰り返し叩打)を肩背部から腰部にかけてて脊椎両側に約5分間行い、深刺の準備を患者に与える。
③背部深刺
伏臥位にて、肝兪・脾兪・胃兪・三焦兪・腎兪;腎兪・大腸兪などと、その高さの夾脊穴に四診あれば深刺する。深刺しなければ深部の硬結はとれない。硬結がなければ刺さない。深刺は、ゆっくりと時間をかけて深部の硬結を揉撚し、置針の際も両手を離さず鍼をもったままにする。
後頭部では、天柱・風池・大杼・瘂門。以上に25分間。
④仰臥位
腹部(中脘;中管、陰交、関元;關元、章門、期門)、喉部(天突、人迎、甲状軟骨周囲)、肩甲上部(肩井、肩髎、肩外兪、秉風)以上に10分間。
⑤手足は補助的にのみ行い、普通は省略する。
                  (治療時間は、約40分間)

 

 

 


       

 


     

 


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