以前、道教と錬丹術(あるいは錬金術)についての下記ブログを発表したが、予想外に高評価が得られた。そこで今回は、なぜ錬丹術といった発想が生まれたかについて、ギリシャ自然哲学の歴史から順を追って説明する。科学技術史は、彼らが何を考えたかということよりも、どのように考えたかという方が重要である。 ※2020/3/7 ブログ 「道教によって影響をうけた古代中国の生命観 Ver.1.6」
引用文献
①るーいのゆっくり解説「錬金術とは一体何なのか?」YouTube動画
②ヨースタイン・ゴルデル著「ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙」NHK出版
③ジョセフ・ニーダム著「東と西の学者と工匠 下巻」河出書房
昔の哲学の重要テーマとして、「全ての物は、何からできているのか」というものがある。この回答として最も発端となるのは、万物のものは単純な物質が起源だとする説があり、これはギリシャで誕生した。
1.ギリシャの哲学者タレス(紀元前624-前546頃)
①万物は水がすべての起源。水を冷やすと氷に、温めるとまた元の水に戻る事実。自然界の水の循環(川海→水蒸気→雲→雨→川海)
②物質は絶えず変化を繰り返すが、決してなくなったりはせず、新しく無から生まれるこ とはない。
③すべての物質はただ一つの「もと」からできている。水や石や金属や生物も 同じものからできている。
2.ギリシャの哲学者アナクシメネス(紀元前1570-前525)
タレスと同様、全ての物は一つの物質から成り立ってると考えた。
①空気ないし息(プネウマ)が万物の元素で、これらが圧縮や膨張させることでいろいろな物質に変化するのではないか。
②水は凝縮された空気。雨が降る時、大気中の水分が水滴になる。
③火は薄められた空気。畑に生える作物を観察し、土と空気と水と火は命が生まれるためにあると考察。
3.ギリシャの哲学者エンペドクレス(紀元前490-前430)
①万物のもとを、一つの物質に限定するのは無理があるとし、万物のもとは、「火、空気、土、水」の4つであるとした。これらが様々な割合で混ざり合うことで、すべてのものがつくられる。
②一本の木切れが燃える時は、まさに解体が起こっている。木ぎれの中でパチパチとはぜた音やジージーといった音の主は水分である。何かが煙になること、それは空気である。もちろん炎も見える。そして火が消えた後に残るのは灰つまり土である。
4.中国の鄒衍(すうえん)の五行説(戦国時代 紀元前305年頃-前240年頃)
①古代中国の自然哲学の思想。万物は火・水・木・金・土の五元素からなる。
②五種類の元素は「互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する。これは西洋の四大元素説(四元素説)と比較される思想。
③陰陽説は古くから存在したのに対し、五行説は陰陽説よりも後から出来たのだが、当初から陰陽説と一体であり、陰陽五行説といわれる。
5.ギリシャの哲学者デモクリトス(紀元前460-前370)
①「原子論」を主張。万物をつくるもとは無数の粒になっていて、一粒一粒は壊れることがない。それ以上壊すことのできない粒を、ギリシャ語の壊れないものとの意味から、アトムと名付けた。
②いろいろなアトムがくっついて塊になることで種々の物質ができあがる。組み合わせて色々な物質ができるという点では、現代でいう分子のことをさしている。つまりデモクリトスは紀元前にして原子や分子の存在を言い当てた。
③この原子論は、神の存在を否定するような理論だったため、人々に受け入れられなかった。この原子論は、哲学者アリストテレス(紀元前384-322)により否定された。
どんなものだって打ち砕けば小さな粒になる。壊れることのない粒なんでありえない、と考えた。この考えは民衆に浸透していった。
6.ギリシャの哲学者アリストテレス(紀元前384-前322)
①エンペドクレスのいう万物のもとである火・空気・土・水という4物質も一つの「もと」からできているとした。つまり「もとのもと」があるとした。
②「もとのもと」に2つの性質を加えることで「火、空気、土、水」の4つの元素になると考察。この2つの性質とは、温度(熱と冷)と湿度(乾燥と湿)を組み合わせることで、この4つの元素が現れるとした。これをアリストテレスの四元素説とよんだ。
③アリストテレスの四元素説は次の図で表すことが多い。この説はヨーロッパの常識に訴えかけることがあって19世紀頃まで人々に影響を与え続けた。
7.アリストテレスの四元素説と錬金術の関係
①アリストテレスの説では、もとのもとには2つの性質があり、これらは自由に変化させることができて、その混合割合により万物がつくられるとした。このことから、 他の金属を金に変えることもできるはずだと考えた。
②ナイル川の河口にあるアレキサンドリアには、エジプトで培われた技術があって、そこにギリシャの理論が導入され、錬金術が始まった。この錬金術は紀元後間もない頃になると、アレクサンドリアだけでなく、南米。中米・中国・インドなどにも少しずつ広がっていった。
8.中国の錬丹術(丹とは硫化水銀のもつ赤色のこと)
①中国は錬金術を使って人間の寿命を延ばすことに大きな興味を持っていた。
具体的にいえば、中国の支配者たちは不老不死となるための薬を錬金術の手法で作ろうとしていた。これを錬丹術とよぶ。
②錬丹術では、辰砂(=硫化水銀HgS)が注目された。辰砂は赤色物質で、赤色顔料として神社の朱塗りや朱肉、器の加工などに用いられてきた。③辰砂を加熱することで水銀を得ることができることを発見した。硫化水銀は、加熱することで水銀と硫黄に分解される。 赤い石から液体の金属が生まれるという不思議な性質が注目された。
④中国では水銀を主成分とする液体を飲むことで、不老不死の効果があると信じられていた。方士(道教の修行者)は霊薬丹薬をもってきたとして、富裕層に売りつけた。金持ちは競うようにしてこれを買い求め、次々と水銀中毒となり死亡した。皇帝がこの水銀を飲んで、死亡していた。現代でいう水俣病。
※黒色火薬の発明
中国の錬丹術は、黒色火薬の発明にもつながった。KNO3(硝石)は酸素のように可燃物である炭(C)や硫黄(S)を燃やすことができる。硝石は激しく燃え上がるという性質が発見され、これが火薬に応用された。
炭(C)+酸素(O2)→二酸化炭素(CO2)+熱
黒色火薬は酸素のないところでも燃焼できるつまり瞬時に燃焼することで強い爆発力を生んだ。 (可燃物の燃焼には酸素を必要とする。物質の表面から燃焼するので反応は穏やかで爆発しない)
9.イスラムの錬金術師ののジャービル(721-815)
①ジャービルはアリストレテスの元素の考え方、中国の錬丹術などに影響を受け、あらゆる金属は硫黄と水銀によって作られているという考え方をした。この混ざり合う比率により金属の性質が変わってくが、とくに金は完全な比率で成り立っているとした。
鉛などの普通の金属を一度硫黄と水銀に分解し、それを金と同じ比率にして再度金属を作り直せば純粋な金を得られると説いたが失敗に終わった。
②ジャービルは化学分野では大きな功績をあげた。ガラス器具の性能や金属精錬の御術の向上など。たとえば塩酸や硫酸、硝酸の精製法や結晶化法を確率、濃塩酸と濃硝酸を3:1の比率で混ぜると金を溶かすことのできる王水とよばれる溶液を発見した。
10.スイスの哲学者パラケルスス(1493-1541)
①ヨーロッパの錬金術師は、賢者の石をつくりだすことを目的として研究を行った。賢者の石(=エリクサー、中国では仙丹)は、金属を金や銀に変え、あらゆる病気を治し、不老不死とする万能薬とも考えられた。
②16世紀にはパラケルススは「医化学の祖」とよばれた。パラケルススは錬金術の知識を積極的に医学に応用していった。以前、薬といえば植物からつくられるものだったが、パラケルススは梅毒に水銀化合物を用いたり、皮膚病に砒素化合物を用いたりした。
しかし依然として賢者の石をつくることはできなかった。人々は本当に賢者の石は存在するのかという考えを抱くようになった。
11.イギリスの物理・化学者ロバート・ボイル(1627-1691)
①ボイルは2000年近く信じられてきたアリストテレスの四元素説を否定した。それ以上小さくできないものが見つかれば、それも元素と認めなくてはならないと主張。これを「懐疑的化学者」という本にまとめた。これにより錬金術が否定されるに至った。
②これまでの錬金術を近代化学へと向かわせることにもなった。ボイルは「最後の錬金術師」とか「最初の化学者」と呼ばれるようになった。
12.フランスの化学者アントワール・ラボアジエ(1743-1794)、
①ボイルに続いて現れたのがラボアジエで、酸素を発見し、他に33種の元素を発見した。
金には固有の元素があり、他の物質からでは製造できないことがついに解明された。
自然界に広くあるもの・・・・(光)、(熱素)、酸素、窒素、水素
非金属・・・・・・硫黄、リン、炭素、塩素、フッ素)、(ホウ酸基)
金属・・・・・・・・アンチモン、銀、ヒ素、ビスマス、コバルト、銅、スズ、鉄、モリブデン、ニッケル、金、白金、鉛、タングステン、亜鉛、マンガン、水銀
土・・・・・・・・・・(酸化カルシウム)、(マグネシア)、(酸化バリウム)、(アルミナ)、(シリカ)
※( )は、現在では元素として扱われていない。
②当時支配的であった四大元素説で「水は土に変わることがある」という説があったが、同年末から翌1769年にかけて、水をガラス容器に入れて101日間も密閉状態で沸騰させた後に正確に重さを測る実験を行い、「水は土に変化しうる」という説は正しくないことを示した。
水(H2O)は酸素と水素の分子化合物であることを発見したものラボアジエだった。
③ラボアジエは、近代化学の父とよばれた。