1.若き日の頃
二十代後半~三十代後半の代田文誌は、沢田健の目覚ましい鍼灸治療効果を目前にし、鍼灸古典をしっかり学習する必要性を改めて自覚した。ただし盲目的に沢田健をカリスマとしてひれ伏すのではなく、同時期に、東大の解剖学教室へ通ったり、長野県の日赤病院の研究生となったりし、科学的な鍼灸とは何かを模索していたという事実がある。
2.沢田健死後の展開
沢田健が死去したのが文誌38才の時で、長野市で開業したのが44才。終戦が45才、GHQの鍼灸禁止令が47才のこと。文誌にとって激動と変革の時期だったのだろう。
文誌は昭和18年10月、「鍼灸医学の新方向」と題し、次のような一文を発表した。新しく科学的針灸を志向しようとする堂々たる宣言といえよう。
<あたらしき時代とは?>
「あたらしき時代」とは何をいうか、科学的学文的な基礎の上に立つ科学的針灸の時代をいうのである。これに対して「ふるき時代」とは、前科学的な時代-ただ経験医学にのみ止まり、科学的理論の上に立たなかった時代を言うのである。(中略)ただ経験医学であるだけならよいが、支那古代の自然哲学をもとにし、易理を根底として組織されてある上に、極めて迷信的な分子も混入し、統一せる治療体系をもっていない。故に鍼灸を行う人々の間に理論の統一がなく、治療に対する考え方もまちまちで、雑然混然たる状態である。従って、その発展の可能性に乏しい。
鍼灸基礎理論として十四經絡があった。これは古人が自然哲学的理論に経験を交ぜて組織したものであるらしいので、それはあくまで独断的な組織であって、実験医学を根底とした理論の上に立つものではないから、科学的検討の素材とはなり得ても、医学とは言い得ぬ。それ故、これの運用がいかによい成績をあらわしても、直ちに以ていかの新しき時代の鍼灸医学の根拠とすることはできない。今後新しく起こるべき鍼灸医学は、実験医学を根拠とした科学的なものでなければならない。(以上は、塩澤全司(山梨大学医学部名誉教授)「父 塩澤 芳一」でインターネットで見ることができる。)
3.「沢田流太極療法」を振り返っての見解
1)經絡論争
昭和22年、GHQは鍼灸禁止令を指示した。これ対抗したのが石川太刀雄で「鍼灸術ニ就イテ」をいう一文をGHQ提示し、昭和23年には鍼灸禁止令は解除された。この頃から、医道の日本誌面で2年間にわたり「經絡論争」が起こった。經絡否定派は代田文誌や米山博久らで、經絡肯定派は柳谷素霊、竹山晋一郎らであった。
2)竜野一雄(經絡肯定派)への返答
その論争の中で、經絡肯定派の竜野一雄は太極療法の発展型として經絡治療が誕生したという旨を発表した(1951~1952年)。以下は竜野の文章である。
沢田健による太極療法は、統一原理が提唱され、兪募穴と五穴(井?兪經合のことか?)の特性まで発達したが、經絡相互間の関係は陰陽の原理まで理解されるだけで、五行説までには発展しなかった。
太極療法に代わって、柳谷素霊氏らにより、經絡治療が名乗りをあげた。經絡という統一体の上に立ち、五行という法則概念によって相互間の関連をつかみ、三部九候の脈診を用い、五穴を以て主治として、これを本治法とし、これに対して局所的な対症療法を標治法とした。
竜野の文に対し、代田文誌は次のように回答し、沢田流太極療法を回想した(1952年)。
竜野氏の指摘される如く、太極療法は沢田健先生創設以来あまり発展していないのは、門下生の一人として恥るところである。太極療法は、全体関連性全機性にもとづき、病気を機能病理学的にみていく立場へと進んでいる。
3)沢田流太極療法は、科学的でない
昭和32年、「鍼灸真髄」の「改訂版に際して」の文章中では、次のように沢田流を評価している。
この書に記されている沢田先生の説は、おおかた古典の説に基づくものであるが、同時に先生の独創的見解も極めて多い。その思考や表現は極めて素朴で簡単で、科学とはいえないが、経験を通して至心に追究し、(中略)科学の素材となる貴い資料を多く保有している。(中略)鍼灸の科学化はわれわれの常に念願するところである(中略)‥‥
4.真理を追究する人
代田文誌が熱心な仏教の信者だったことはよく知られているが、宗教と同じように、鍼灸にも真理を求めた。その「真理」に近いのは、沢田流などの古典的鍼灸よりも科学的針灸だと判断したのだろう。この考えを表明したのは戦後のことであるが、内に心に秘めていたのは鍼灸師になって、間もなく生まれたものであったらしい。それは沢田健の治療を見学しつつ古典の勉強をする一方で、同時期に解剖学教室や病院研究生となったりしていることで推定できる。戦後になり、代田文誌が科学派に<転向した>として批判するのは、お門違いといえよう。