人体を小宇宙とみなした道教の教えは、宇宙同様に人間内部にも無数の神が存在すると考えた。信ずれば救われるという大乗思想とは異なり、自らの修行(=道士)により、「神」を増大させて不死を得ようとする小乗思想が道教である。この修行は大変厳しいものだったので、楽に「神」を手に入れるかの方法も考案された。それが霊薬(丹薬=硫化水銀)を服用することだったが、結局霊薬中毒者が多発する悲劇を招いた。
※丹薬については、以下の私のブログ参照のこと。
2020.3.7「道教によって影響を受けた古代中国の生命観 ver1.7」
道教は不死の思想であるため、人間の身体のしくみについても記している。その中には鍼灸で使われる、馴染のあるツボの名前が多数出てきて思わず嬉しくなるが、そのツボ名の考え方は道教特有のものなので、鍼灸臨床に応用できないし、当時の医学的生理を理解する上でも、あまり役立たない。なぜならそのツボ名は、人体内の特定部位に住む神の名前をさしているからである。ただし道教での宇宙観た人間観を俯瞰するには興味深いものといえよう。道教の中で、これらのツボがどのように記されているかを見ていく。
1.人体内部にある神々のなかでも、もっとも重要なのが、生命の中枢である三つの丹田である。第一の丹田は脳(泥丸宮)、第二は心(絳宮)、第三は臍下(下丹田)で、それぞれ脳・胸・腹の司令部に相当する。三つの丹田の入口を明堂とよび、それぞれ眉間・気管・脾臓だとしている。
(註釈)泥沼宮とは、脳深部にある松果体をさす。かつて松果体は額中央表層にあり、第三の目として第六感的なような役割を果たしたとされている。脳味噌を泥沼と呼んだのは、昔の中国人はドロドロにくっついた内臓という認識だったからであろう。
明堂とは、中国周代、天子が諸侯を会して、政治を行なった殿堂の名称。神庭穴(額髪際の上1寸入ったところ)は明堂の別称。明堂は朝廷とも称するが、これは天子が早朝から仕事を開始したことに由来する。
2020.11.21 「睡眠のトレビアver1.1」
※漫画家「手塚治虫」は三つ目族の子孫で中学二年の写楽保介を主人公とする<三つ目がとおる>を描いた。普段は額におおきなバンソウコウを貼っている少年だが、バンソウコウをはがすと、その下から第三の目が現れ、恐ろしい超能力を発揮する。
ある時、写楽は修学旅行で明日香村を訪れた。仲間と散々悪ふざけをしたので、寺の和尚にバンソウコウを剥がされてしまった。すると超能力を発揮し、寺の二面石を割り、中に刻まれた秘薬の調合法を知った。写楽は明日香村の遺跡「酒船石」に刻まれた溝を利用して、秘薬の薬を調合しようとした。 (『三つ目がとおる』「酒船石奇談」より)
この酒船石は、円形の凹所に液体を溜め、細い溝に流したらしい。酒の醸造に使用されたという説から、とりあえず「酒船石」と呼ばれているが、本当は何の用途につくられたのか定説がない。
絳宮(こうきゅう)の絳とは、紅の類義語で深紅の色をさす。心臓が血を動かす重要臓腑だということ。
2.道教では、呼吸は単に気が肺に出入りするものだけとは考えていない。
吸気:鼻→心肺→脾→肝腎
呼気:肝腎→脾→心肺→口
息を吸う時、空気は肝・腎より下に気が下りることはない。これは気の関所である関元で止めるからである。ところが道士は気を気管に通すのではなく、消化器官に飲み込むので、関元;關元より下に気を導くことができる。この部が臍下3寸の気の海、「気海」である。道教にみる経穴名
(註釈)
現行経穴学では、気海穴は、臍から恥骨までの長さを5等分し、臍から1.5寸下方に取穴する。
呼吸には胸式と腹式があるが、気をなるべく下方まで導くことを考えると腹式呼吸の方が望ましい。呼吸時の腹の上下振幅における下端位置が気海ということだろう。
なお、膀胱経二行線上の膏肓で、膏の源は鳩尾に出て、肓の源は気海に出るとされるが、これは腹式呼吸時の上下振幅の両端をさしているように思う。
空気を飲み込むと胃がふくれるが腸までふくらすことが難しい。すぐれた道士は吸気で上腹だけでなく下腹までふくらすことができた。
3.息を吸うと気は腎にある精と交わって神になるが、息を吐くと同時に神は消失していまう一時的な存在である。神を維持するには、長時間息を止めておくべきである。道士らは、息を止めておく練習を重ねた。息を長時間止める効果は、気海の神を増大させるだけでなく、気は脊髄を通って上丹田である脳に上行し、次い胸の中丹田を通って口から呼気として出せるようになる。このような新たなルートを開発することで、三丹田の神を増大させる。
4.これら丹田は神に属するのに対し、霊魂は低い地位におかれる存在である。なぜなら死ねば消滅してしまうからである。霊魂は魂と魄に分けられ、魂は肝で、魄は肺で養われる(なお精は腎に、神は心に養われる)。なお魄門と肛門をさす。上の気の出入り口を口鼻とすれば、下はの気の放屁としての出入り口は肛門になる。
(註釈)
魂魄という単語ですぐに連想されるのが、背部膀胱經二行にある魂門(Th9棘突起下外方1.5に肝兪をとり、その外方1.5寸)と魄戸(Th3棘突起下外方1.5寸に肺兪をとり、その外方15寸)なので、これは道教思想と一致している。背部膀胱經一行ラインには臓腑名のついた兪穴が並んでいるが、背部膀胱經二行ラインは臓腑によって養われる霊と関係しているようだ。たとえば脾兪外方1.5寸に意舎、腎兪外方1.5寸に志室、心兪1.5寸に 神堂なども同じである。
参考:
アンリ・マスペロ著「道教」東洋文庫、平凡社、昭和53年刊
吉本昭治:経穴、経穴名、任脈、督兪等の考察(7)、医道の日本、昭和58年3月号