少病少悩
1.「少病少悩」の解釈
私は、医道の日本平成24年1月号の新年のことばとして、以下の小文を記した。
数年前、代田文彦(故人)の奥様、瑛子先生から郵便物が届いた。開封してみると、色紙が入っており、次のように書かれていた。
少病少悩
南無釈迦牟尼佛
氣息安穏
(代田文誌三十三回忌に記して)
瑛子先生の添え書きとして、「これをどう解きますか?」との一文も入っていた。二行目と三行目は理解できたが、一行目がわからない。とりあえず額に入れて治療室に掲げておいた。
しばらく後、患者としてお坊さんが来院し、「この言葉を選ぶとは‥‥」としきりに感心し、私に解説してくれた。「少病少悩」というのは、人間、病や悩みから完全に解放されれば理想的であるが、実際には非常に困難なことである。せめて少ない病、少ない悩みならばそれで十分ではないか、との意味だという。
代田文彦先生の「東洋医学は、たとえ治せないとしても、癒すことはできる」という言葉は、このことだったかと思った。
ふと一茶の俳句が頭に浮かんだ。
こういうことか?
めでたさも 中くらいなり おらが春 (小林一茶)
2.代田瑛子先生からの返信
医道の日本誌の当該記事が載った部分をコピーし、代田文彦先生の奥様である瑛子先生に郵送した。すると数日後、返信が届いた。私信なので、全文は公開できないが、少病少悩に関する内容は次のようだった。
私は毎朝仏様にごはんとお茶をお供えして般若心経を唱えて、その額を見ています。自分なりに解釈しております。「人間として病と悩みからとき放されているのは、即この世からの解放の時であろう。だから人間この世に生を受けている間は、ほんの少しの病と悩みを持って生きていけば、気が和らいで心安らかにおだやかに生きられるのだと」。年相応の体の心の変化が有ってこそ心の平安が有るのだと思いながら生活しております、との文面だった。
瑛子先生が毎朝向かっているであろうお仏壇を私は思い出した。中には文誌先生、文彦先生の位牌もあった。驚くほど質素なものだった。