はじめに
東洋療法学校協会編の「鍼灸実技」教科書には、薬物灸の説明が載っている。現在のわが国において、薬物灸を実際に行っている処は非常に少ないのだが、灸基礎実技の担当講師は、不案内なのにも関わらず、立場上薬物灸について一通り説明する必要にせまられる。
薬物灸について簡明に、かつ興味深く、教えるにはどういう内容にいたらよいのだろうか。私が過去に教えた内容を記すことで諸先生方の参考に供したい。
1.天灸
自灸ともいう。発泡薬を一定時間皮膚に貼るもの。この代表的な薬物には白芥子(はくがいし)がある。
打膿灸直後に、この天灸で用いる発泡薬を貼布すると、さらに化膿しやすくなる。
※発泡薬:皮膚刺激剤の1タイプ。血管壁に作用して血管拡張作用があり、皮膚透過性があるので、疼痛・発赤、ついで漿液性滲出をきたし、局所に水疱が生ずる。その作用部位や作用時間の長短により、引赤剤や化膿剤にもなる。
※白芥子(はくがいし):カラシナの乾燥種子。カラシナは食用植物で少々辛く、オシタシなどにして食べる。粉末にしたものを水で調合し、皮膚に貼って発疱させる。
2.漆灸
漆灸には、生漆(きうるし)を用いる方法と乾漆を用いる方法がある。前者は、生漆と樟脳油を調合し、ヒマシ油を適量加えて混和したもの。これを棒で皮膚に塗布したり、艾に浸ませて経穴部などに置く。
植物毒によって皮膚に炎症を起こす目的。
※樟脳:クスノキのことを樟という。樟脳とは、クスノキの香りの成分の結晶。爽やかな芳香があり、気分をリラックスする作用がある。かつては強心剤としてカンフルを用いた(実際には無効だった)ことがあり、これも樟脳が原料である。
樟脳で、混同されがちなのがナフタリンである。ナフタリンはコールタールを原料として製造され、においがきつい。
3.水灸
いくつかの薬物に組み合わせがあるが、代表的なのは薄荷、竜脳、アルコ-ルを混和したものである。筆、箸、棒などを用いて皮膚に塗布する。メンタムを塗ったような爽快感がえられる。
4.墨灸
琵琶湖湖畔の草津市穴村(温泉で有名な群馬県草津とは無関係)にある伝統療法として墨灸は有名だった。 明治初期の鍼灸・漢方界のオピニオン雑誌発行者として有名な駒井一雄はその跡取りだった。墨灸のことを紋状に跡が一時的に付くことから“もんもん”と呼び、駒井家の屋号は“穴村のもん屋さん”だった。1日300人。多い時に1000人を超えたという。
墨灸とは、艾のエキスをツボに筆などで塗る治療法で、熱さも、のちのち熱傷跡も皮膚に残らないツボ療法として、かつては幼児・子供の治療法として普及した。
何種類かの生薬の組み合わせがあるが、代表的なのは、黄伯(きはだ)を加えた墨を、筆でツボに塗るものである。墨の遠赤外線効果が治効に関係しているという見解もある。
※黄伯:樹皮の内側の内皮が黄色のことからこの名がついた。内皮は胃腸薬として用いられる。
※この溶液をモグサに染みこませて団子状にし、皮膚において扁平にした後、艾しゅを置いて点火する方法もある(鏡の坊鍼灸院HP)。
※余談:灸点をとるのに、マジックインキを使うのと、灸点器を使うのとでは違いはあるのだろうか。私が鍼灸師初心者の頃、「同じようなものだ」といったら、非常に憤慨した先生がいた。「灸点器で使っているのは墨だが、マジックインキは化学物質である。墨は炭素であるから、モグサを燃焼させる際、無害なのに対し、マジックインキを使うと化学物質が皮膚内に入る」という主張であった。確かに昔は灸点をとるのに、書道用の筆を使って墨を使ったので、一理ある話ではある。
現在、私は灸点器を所持していないこともあり、懲りずにマジックインクを使って灸点をとっている。一方針灸学校教育では何故か灸点ペンを使わせることが多い。このあたりの事情は、施灸治療的に無視していいことなのだろうか。少々気になっている。
5.紅灸
紅花から絞った汁(紅花水)をツボに塗布する。紅花は、化学染料が普及する以前は、布の赤色染料として大変高価なものだった。口紅の原料としても用いられた。赤色は、血の色であることから、古来から生命増強の力があるとされた色で、赤ちゃんの宮詣りや祭りの時、額に紅をつけた。紅灸で、紅花水を使わず、単なる食紅を水で溶いて、使ったという例もあるようで、まじない的効果のようでもあった。
※現在、紅灸を製造しているのは、鹿児島の本常盤というところ(販売は丸一製薬)で、戦前は赤紅(アカベニ)が主に使われていたが、赤い色が衣類に付いたり、原料も手に入らなくなったということもあり、やがて白紅(透明ではなく、淡いピンク色)に変わったという。ただし白紅がどういうものかは調べきれなかった。
※私は以前の勤務先の針灸学校で、灸実技用として、白紅(紅花水)を買ってもらう機会があった。色はヒビテンを薄めたような透明感のあるピンク色で、ニッキ飴のような香りがした。白紅を十分含ませた脱脂綿を皮膚に置く。スースーした感じがした。紅花水そのものは、刺激感がないということで、これはがこれは、配合している樟脳精・チモール・トウガラシチンキ・サリチル酸メチール・Lメントールなどの作用であろう。
いまでいうメンソレタームやムヒみたいなものだろうか。