石坂宗哲著『鍼灸茗話』は、江戸時代の鍼灸書の中も広く知られている。そのせいもあって、鍼灸師の基礎知識として学校教育で学習済みの内容が多く、その意味で新鮮味は少ないが、中にはオヤッと感じる記載があるので、いくつか紹介する。なお、鍼灸茗話は、久次米晃訳による。
茗話は<みょうわ>ではなく、<めいわ>と読むのが正しい。「茗」とは遅く摘んだ茶葉のことで、通常の季節に摘んだ茶葉のことは単に「茶」という。すなわち茗話とは、「のんびりと回想しながら書き溜めた茶飲み話」といった意味になるだろう。なお※印は、筆者の注釈である。
『鍼灸茗話』は和綴じ本で、昔は医道の日本社から普通に購入できた。
1.兪穴俗称
1)ちりけ
第三胸椎棘突起下の「ちりけ」は、元々小児の痰喘壅盛(今日の小児喘息)の病名であると鷹取の書にもある。今日の人が兪穴の名前であると思っているのは間違いである(『本朝医談』)。今も関西では小児の急吼喘(=喘鳴)を、「はやちり」とよぶところが多い。
※「壅」(よう)とは、人家を堀や川で囲む、押し込める、塞ぐの意味。この文中では、呼吸しにくいとの意味
※鷹取の書:鷹取秀次著「外科細漸」上中下巻 全3冊 江戸初期 和本 医学書
2)斜差(すじかい)
すじかいとは、男児では左の肝兪と右の脾兪に一壮ずつ、女児では右の肝兪と左の脾兪に一壮ずつ灸すること。肝兪は風邪に侵入されないように、脾兪は飮食で疲労しないように。小児は気力が脆弱で灸熱に堪えることができないため、左右の肝兪・左右の脾兪という四穴全部に施灸しない。二穴に省略して施灸する。
3)貫き打ち(=打ち抜き)
内果の上四指一夫を三陰交という。また外果の上四指一夫に絶骨(=懸鐘)穴がある。この両者を世間一般では「ぬきうち」の穴とよぶ。打ち抜きの灸とよぶこともある。外関と内関にも貫打ちの灸を行うことがある。向かい合う2穴同時に灸熱を加えるもので、術者が一人でやることは難しい。
※一カ所から灸をすると、病邪は奥に逃げ、逆側から灸をすると、病邪は、元の方に戻る。このような場合、病邪の逃げ場がなくなるよう、病邪を挟む位置にある二穴同時に灸熱を加えるのが良いとの考え方がある。
※四指一夫:第2指~代5指を、指を開かないで揃えて伸ばすこと。
4)井のめ
井のめとは、腰眼のことで、十六・十七椎(第4・第5腰椎)の間で左右に三寸半開いたところの陥凹部をいう。「井のめ」とは亥目である。
※骨盤を後からみた時、イノシシの顔に似ていて、イノシシの目に相当する位置に井のめ(=腰眼)を取穴する。 ハート形なのは、イノシシの目の形がカタチがハートに似ている(実際には似ていない)ことに由来する。災いを除き、福を招くという意味がある。奈良時代頃からお寺や神社などの建築装飾としていたるところに使われている。
5)からかさ(唐傘)灸
足の第二指・第三指の間で内庭穴のこと。唐傘灸。(「医学入門」では足痞根している部位でもある)
※「痞」とは、胸がつまる、胸がふさがる、つかえ、腹に塊のようなものがつかえる病気などの意味をもつ漢字)。この部の灸は逆上のぼせを下げるのに効くという。
※唐傘とは洋傘に対する和傘の総称で、唐代にわが国に入ってきたもの。それ以前の傘は、折りたたむことができなかった。唐笠には別名番傘ともいう。竹の骨組みに油紙を貼っている。洋傘よりも重く大きい。番傘というのは油紙に紛失防止のための番号が振ってある和傘で、貸し出し用として使われた。内庭は、足の五本指が集まるところという点から、唐傘の骨組みの中央にたとえだのだろう。
唐傘は、「番傘」のほかに、「蛇の目傘」ともよばれた。広げた傘を上からみると二重円で内円が黒くぬってあるというデザインがはやった。注意を促す記号として従来から知られていて、蛇の目のようであったことから、蛇の目と呼ばれた。蛇には瞼がないので、ずっと目が開いているように見える。(実際は目の上に透明な瞬膜という膜があり、目を保護している)
※通常の痞根は、L1棘突起下縁と同じ高さ、後正中線の外方3.5寸の部位。L1棘突起下は、後正中から、懸枢→三焦兪(外1.5寸)→ 肓門(外3寸)→痞根(外3.5寸)と経穴が横並びになる。
6)かごかき三里
かごかきは、「駕籠かき」の意味。駕籠をかついで人を運ぶのを職業とする人足のこと。ふくらはぎの下の筋溝で陥凹部。人体の中の三魚腹(=下腿三頭筋)のうちの一つで、承山穴がこれ。かごかきは足をよく使うことから、脚の疲労回復のつぼのこと。
※時代劇などでよく見るのは「四つ手駕籠」で駕籠の中では最も軽量なタイプだが、それでも重さは約10㎏はあった(ちなみに大名駕籠は50㎏)。これに人を乗せて運ぶのだから、当時の客人は小柄だったとしても総重量60㎏にもなっただろう。それにしても当時の人夫の体力には驚かされる。ちなみに四つ手駕籠の料金は、一里(4㎞)で、現在の一万円以上もした。
2.求嗣断嗣(きゅうしだんし)
求嗣とは子孫を求めること、断嗣とは子孫を求めないことの意味である。昔から妊娠させること、させないことの方法が論じられているが、顕著な効果をあげたという例は極めて少ない。しかし、まったくだめだと言い切ることはできない。(中略)
かつてある人妻が不妊症で私の処にやってきた。診ると臍下に引きつっている部分がある。天枢穴の下にあたるところで、かすかな動きがある。そこを押すと、陰器の奥に響いて痛む。これは疝癖(「疝」とは、生殖器・睾丸・陰嚢部分の病証。体内の潰瘍が外に膿を出す)であり、不妊症になっている原因がこれだと考えた。まず二十日のほど当帰勺薬散を煎じて飲ませ、外陵・大巨の左右四穴に施灸させ、十数日間に七・八回、子宮口と周辺に細鍼で連環刺した。更に毎月十五回ずつ前の四穴に施灸させた。数ヶ月もたたないうちに生理が止まり、臨月になり安産した。(中略)
なお連環刺とは、連環の形(半月を連ねたような形)に刺すもので、営衛の經絡・宗気の流れを漏らさずに取るための治療手技。石坂流の家定三刺法の一つ。
石坂宗哲著『鍼灸説約』に掲載された治験には次のようなものがある。
『銅人腧穴鍼灸図経』1027年製作)では、「中極穴は女性の不妊を治す」とあり、『千金方』(唐代618年- 907年)では「関元は女性に刺針すると子が生まれない」とある。中極穴と関元穴は3寸(1寸の誤りか)離れているだけである。ところがその一方は不妊症を治し、他方は刺すと子供を産めなくなるとある。
これは疑わしい。昔、貧しい商人の家で、毎年出産する者がいた。五、六年で五、六人の子供が産まれた。その夫婦は生活に困り、不妊になるようにしてほしいと言った。そこで試しに関元穴に2寸から3寸刺針し、右門穴に十四壮施灸した。七日間施術して終わりにした。ところが、その人はまた妊娠した。やってきて、鍼は効かないと、私を嘲笑した。
妊娠5ヶ月になるのを待って、関元・合谷・三陰交の三穴に七日間刺針したが、妊娠は良好だった。臨月になって、男子を出産した。安産だった。私はここに至って、昔の人も嘘を書き残すことがあるのだと悟った。
(この見解に対し柳谷素霊は「不妊治療は成功しやすいが、避妊・堕胎は成功しにくい。しかし施術がうまくいけば、避妊・堕胎も不可能ではないが、上に示している避妊の穴に刺針して、内臓収縮現象が起こらなければ効果を期待できない。」と記している。
3.狄嶔(てききん)の言
唐の魯州の刺史庫で、狄嶔という人が風痺(筋肉・関節の疼痛を特徴とする病証を痺証といい、風痺は、とくに風邪が勝っているもので、四肢の関節・筋肉の遊走性の疼痛が特徴)であり、の病気を患い、弓を引くことができず、非常に困っていた。
その時に医師瓢権が治療した。まず嶔に、弓矢を持って弓場に行かせ、立ったまま肩髃穴に刺針したところ、鍼を刺入するにつれて、射ることが自在になったという。
※症状の起こる動き(この場合、弓を引く動作)をさせ、その時出現する局所圧痛点に刺針することが効果を生む秘訣で、これは現代においても針を効かせるための重要なコツともいえる。