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立位で膝関節症の針治療をすることの意義 Ver. 1.4

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筆者は本年11月15日に「膝OAに対する鍼灸臨床 Ver.2.0」を発表した。

この時、立位で診療することの必要性について少し触れたのだが、鍼灸の効果を高めるために重要な内容なので、今回きちんと説明したい。


1.仰臥位での膝関節周囲の治療

膝OAでは、膝周囲の圧痛点に刺針施灸することが多いが、多くは仰臥位で行い、置針あるいはこれに低周波通電を追加する形をとるのが定石であろう。

しかし筋を脱力させた状態で刺針するのは、確かに針はスーッと入るだろうが、あまり効果的でない。膝OAの痛みの正体は筋膜症で、筋緊張を緩めることが治療目標となるから、、問題のある筋を収縮または伸張させた状態にして刺針した方が効果的になる。この体勢は患者にとって不安定なので単刺術や雀啄術が適しており、置針や置針パルス通電は不適切になる。

膝OAで重要となるのが大腿四頭筋の緊張改善だが、大腿四頭筋の起始である膝蓋骨上縁部鶴頂穴あたりのの圧痛硬結は、よい治療目標となる。刺針は四頭筋をストレッチさせる、すなわち仰臥位で膝屈曲位にさせて刺針すると、四頭筋腱刺激することで四頭筋を緩める
生理的機序(Ⅰb抑制)に働きかけとよい。
鶴頂刺針の理論は、オスグッド病に対する膝蓋腱(=犢鼻)刺激にも使える。

 

2.膝蓋骨周囲の圧痛に対する立位での施術の意義

1)治療効果の乏しい仰臥位施術

では仰臥位膝伸展位で、膝蓋骨内縁や外縁(内膝蓋穴や外膝蓋穴)の圧痛や内膝眼・外膝眼の圧痛に対してはどう対処すべきだろうか。
筆者はこれまで、大腿膝蓋関節の滑動性の悪さで、この滑液分泌を促す目的で局所圧痛点に刺針するという解釈から局所圧痛点に刺針していたが、治療を繰り返しても思ったほど効果はないのが実情だった。


2)立位での施術

これらの穴の圧痛も実は筋膜症の一つなのではないだろうか。このアイデアが正しいとして、「仰臥位膝屈曲位で鶴頂の圧痛を診る」と同様の治療方策はないものかと悩んだ。その結果、たどりついたのが「立位にしての刺針」だった。
   
膝関節痛は、仰臥位姿勢では痛みが出ないのが普通である。この姿勢にさせて圧痛点を探して刺針してもあまり効果が得られない場合がある。膝痛で痛みが生ずるのは、立った時そして歩いた時であるから、ベッド(または踏台)の上に立位にさせた状態ににして圧痛点を探して刺針するという内容である。

立位で膝蓋骨下縁(内膝眼、外膝眼あたり)を触診すると、反応点では脂肪体の増殖がみられ、やや強く押圧すると患者は痛みを訴える。ここを治療点とする。
寸6#2~寸6#4程度の鍼で、直刺すると、1~2㎝刺針すると、抵抗ある組織に当たるので、軽く雀啄して抜針する。この抵抗ある組織とは関節包だろうと思う。立位にすると膝関節包が伸張されて過敏になっているのだろう。

 

①立位にして、後側から行う施術のメリット

当初、患者をベッドに立たせ、術者は患者に向き合った姿勢で丸椅子に座って、圧痛探しをした。圧痛点は膝蓋骨縁周囲の下半分(内膝蓋、内膝眼、犢鼻、外膝眼、外膝蓋など)に多数出現することが多く、また仰臥位で調べた反応点とは微妙点に反応点がれた部位だったり全く異なった部位に圧痛を発見できた。仰臥位で膝屈曲位で探る圧痛は、膝蓋骨上半分なので、立位で圧痛点を探る方法は、また別の観点からの探索であって,互いに補完性があることが判明した。探るのはそこに単刺術をすると、直後効果が非常にあった。

ただしこの姿勢は、当院のベッド周りの構造上、患者のつかまる処がないので、患者は不安がっていた。


②立位にして、後側から行う施術のメリット

そこで数週間後から、ベッドに立たせた患者の後側から、圧痛探しをしてみた。この姿勢では、両手で患者の膝両側面をしっかりとサポートでき、キッチリとした押手も構えられるので、非常に刺針しやすくなった。その上、患者は壁と向き合うことになるので、壁に手をつくことができて以前より安定感がありそうに見えた。

ベッド上に立たせるにせよ、ベッド脇の床に立たせるにせよ、患者の膝の高さが施術者の臍の高さ程度になるのが最もやりやすい。

 

 


3.膝の新穴

話はまったく変わる。膝関節痛の圧痛点位置を表記するには、正穴だけでは足りず、従来から皆が不自由していた。その解剖学的部位を記録するのも面倒なことであった。このような状況にあって、出端昭男氏は、御著書の中で、自分なりに命名したツボ名を発表した。これは本人の思惑を越えて、針灸界に広く普及していった。その理由は、命名理由が解剖学的特徴をうまく捉えたからであろう。

 ①下血海(奇):膝蓋骨内上縁の裂隙部。
 ②下梁丘(奇):膝蓋骨外上縁の裂隙部。
 ③内膝蓋(新):膝蓋骨内側縁の中央。
 ④外膝蓋(新):膝蓋骨外側縁の中央。
 ⑤内膝眼(奇):膝蓋靱帯内側の陥凹部。
 ⑥外膝眼(奇):膝蓋靱帯外側の陥凹部。


大腰筋性腰痛の症状と鍼治療 Ver.1.1

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1.腸腰筋の基礎知識
    
大腰筋とは、大腿骨から腰椎のそれぞれ全部の間に走る筋で、腸骨筋は骨盤から大腿骨の   間に走る筋。腸骨筋は走行途中で大腰筋と同じの束(腱)になり大腿骨に付着しているので、2筋合わせて腸腰筋とよばれる。

起始:浅頭は第12胸椎~第4腰椎までの椎体および肋骨突起。深頭は全腰椎の肋骨突起。
停止:大腿骨の小転子、支配神経:大腿神経,作用:股関節の屈曲(大腿の前方挙上)

 

 2.腰神経叢症状を生ずる腸腰筋緊張

腰神経叢はL1~L3脊髄神経前枝で構成されるが、腸腰筋中を走行しているので、腸腰筋が緊張すると腰神経叢症状を生ずることも多い。具体的には大腿前面、大腿外側痛、大腿内側痛を生ずることがある。また腸腰筋停止部は大腿骨停止部なので、鼠径部から大腿小転子部の痛みを生ずることがある。

3.大腰筋性腰痛の症状
   
①Th12~L5の脊柱傍の痛み(腸骨稜に圧痛なし)
②大腿痛とくに鼠径部、大腿前面の痛み
③大腿骨小転子付近の圧痛
④大腿挙上困難
⑤中腰姿勢が痛み少なく、無理に上体を起こすと腰痛増悪(腸腰筋伸張痛)
何らかの原因で、大腰筋の持続的過収縮が生じると、中腰姿勢となる。中腰姿勢が続くとバランスをとるため、二次的にアウターマッスルである腰背筋の収縮をきたし、腰背筋の筋々膜痛としての症状を呈するようになる。
⑥朝起きたときに痛むことが多い。←持続収縮状態にある腸腰筋を、上体を起こすなどして無理に伸張した。
⑦背腰筋緊張状態の合併がない場合、腰部起立筋に顕著な圧痛はみられない。

 

4.大腰筋刺針(似田) 
    
伏臥位にてL4、L5椎体棘突起の外方3寸(腸骨稜縁)からの内方に向けて深刺して大腰筋中に刺入する方法が一般的である。

 

だが、筆者はそれを側腹位で実施している。この方が大腰筋を触知しやすく、刺針も容易になる。側腹位、3寸#5~10の針を用い、ヤコビー線の高さで、起立筋外縁を刺入点とし、椎体横突起方向に7~8㎝刺入する。針先が患部へ響くと、ズーンと重く響くような感覚が腰全体に広がる。大腰筋を包む腰仙筋膜深葉が刺激された結果である。
       
側腹位で大腰筋が触知しづらい場合、上になっている側の大腿部を自分のお腹に近づけるよう、強く股関節を屈曲させるようにすると、さらに大腰筋を触知しやすくなる。
  

5.大腰筋刺針アドバンス(大腰筋を緊張した状態にしての刺針)
     
大腿を挙上しづらいという訴えに対し、立位で踏台に患足を乗せた姿勢にする。その姿勢を保持した状態、上述の大腰筋刺針を行う。ときには置針した状態で、健足を少々宙に浮かせ、患足に全体重をかける。その状態にして、すでに刺入してある大腰筋刺針を軽く上下に動かすと、大腰筋が硬く緊張するのを刺手に感じとることができるので、雀啄手技を加えて抜針する。

 

 


 

小児鍼の歴史と疳の虫の治療

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筆者は2011年5月27日、「小児かんの虫の鍼灸治療」と題したブロクを発表したが、最近、長野仁・高岡裕「小児鍼の起源について 小児鍼師の誕生とその歴史的背景」(神戸大学大学院医学研究科内科系講座小児科学分野ゲノム医療実践学部門)平成 22 年 7 月 20 日受理の論文(ネット上で公開)を読む機会があり、小児針に対する今日の常識的理解が誤りであることを知った。この論文の知見を含めて、小児針法について書き改めることにした。小児鍼の歴史は、小児特有の胎毒や丹毒に対して、刺絡することが原点だったが、明治時代になって鍼師が鋒鍼(刃物のような鍼)を使うことが禁止されたため、按摩針とよばれた擦ったり叩いたりする軽刺激の鍼に変わったという経緯があったという。

http://jsmh.umin.jp/journal/56-3/56-3_387.pdf

 
1.乳幼児の二大疾患であった胎毒と丹毒
   
かつて、わが国では胎児が胎内にある時、胎内の毒物により病気になった状態を、胎毒や丹毒によるものとされた。胎毒は毒が体内に留まった状態、丹毒は毒が皮膚に発した場合であった。

1)胎毒
 
    

①本態
かつては胎児の間に蓄積した毒が、出生後の体内に残存することによる。戦国~江戸時代初期には、幼児~幼児期に起こる大半の病気の原因になると考える説もあったほどだった。
②症状
脂漏性湿疹。新生児黄疸・高熱。拡大解釈されて頻繁な発熱、自律神経不安定(夜泣き、熱性けいれん=ひきつけ)
③治療
散気を目的として刺絡。
 

2)丹毒

①本態
連鎖菌による膿痂疹。年齢、季節を問わずに生じ、黄褐色の厚い痂皮と周囲の発赤を特徴とする。かつては胎児の間に蓄積した毒が、出生後の皮膚に発現したものとされた。最近では乳幼児よりも免疫力の低下した高齢者に多くなった。俗名とびひ。飛び火するように、身体のあちこちに痂疹が出現し、他者に接触感染しやすい
②症状
悪寒発熱を伴って境界鮮明な浮腫性の紅斑が顔面や下肢に皮膚に発生する
③治療
かつては刺絡したが現在では鍼灸禁忌。皮膚科で抗生物質治療が行われる。抗生物質の服用が必要になる。
 
3)丹毒と散気(チリゲ)
   
チリゲとは中国医書に所出のないわが国特有の概念である。丹毒の和俗名を散気(または塵気)とよんだ。チリゲとは、本来は丹毒という皮膚病の別称であり、小児疳の虫のことをいうようにもなった。さらには灸点を意味することにもなった。つまりチリゲは皮膚病→疳の虫→チリゲの灸というように意味が変化した。今日、チリゲというと小児疳の虫の治療で行う身柱穴の灸というように意味が限定されてしまった。

2. 疳の虫
 
1)概念                               
   
かんの虫は民間用語であり漢方では疳という。「疳」は肉食甘物を食べるものに因を発する。具体的には、母親が肉類過食等で与えた結果、母乳成分に異変がある場合、または乳児に歯が生えた後も母乳を与え続ける場合によるとされる。
     
また「癇」との意味もある。これは痙攣を主症候とする病変をすべて包括する概念で、癇癪(かんしゃく)の癇である。おもちゃ売り場の床にひっくり返って大声で泣き叫ぶなど。
   
※乳幼児の離乳前後(生後8~10ヶ月)に多い。子供に乳歯が生え始めるは生後6ヶ月前後であり、2歳頃までに完成する。歯が生えてきた後も母乳を与え続けることは、子供に疳が生ずるので好ましくない。現代では、離乳は5か月頃から始める、母乳を完全に離すのは生後8~10か月までがよいとされている。
 

2)原因と症状
   
原因:神経性素因、騒がしい環境、栄養の不適切。ただしその主因は、精神と身体の急速な発育にために生ずるアンバランスによって生ずるとされる。 小児精神身体症に相当。
   
症状:不機嫌、夜泣き、不眠等の神経症状があり、顔面に一種の精神興奮状態を示す。
 

3)疳の虫封じ(まじない)について
    
かつて本邦では疳の虫の治療として、民間の呪医や僧侶などによって虫切り、虫封じ、疳封じなどの施術が行われた。乳児の手のひらに真言、梵字などを書き、粗塩で手のひらをもみ洗いして、しばらく置いてみると指先から細かい糸状のものが出ているのが見えるといい、これが虫であるとされた。実際は手を洗う水の中に真綿が少量混ぜてあり、乾いてくるとそれまで見えなかった真綿が見えるようになる。要するに暗示療法である。

 

 

3.小児針法
 
1)小児鍼の歴史 
   
中国には小児鍼という考え方はなかった。乳幼児に対し、わが国では磁器の破片を用いて細絡から刺絡するような強刺激が普通に行われていたが、江戸時代には古代九鍼の一つである鋒鍼が用いられるようになった。しかし1883年に医師免許規則が公布されるにおよんで、鍼師が皮膚を切開することは禁止され、1912年(大正元年)からは鍼灸業は免許制となったことで、医師以外は治療として刃物にのような鍼は使えなくなった。
   



ちょうどその頃、小児鍼の治効の現代医学的理論づけを行ったのが藤井秀二医師(大阪大学小児科)で、鍼に関しての初の博士号取得となった。藤井の実家は小児針治療を行っていたが、そこで行われていたのは、これまでの小児鍼とは異なり、小児按摩のような刺さない鍼であってあったことから、今日広く普及しているような軽刺激の方法(按摩針)に変わっていった。「小児鍼」という名称を定着させたのも藤井だった。それ以前は、「小児はり」といったような名称だった。


2)藤井秀二の小児鍼の治効理論
 
小児に対する針灸治療には、小児針を用いることが多い。小児針の適応年令は、生後20日から 4~5歳で、それ以上では成人と同様の亳針法でド-ゼをきわめて弱くする。

藤井の小児針の治効理論とは、「小児は自律神経が成人に比べて変動しやすく、自律神経が不安定になりやすいことに注目。小児針の治効は、皮膚知覚刺激を介して交感神経の不安定を  調整する点にある」とした。(藤井秀二:「小児はり」について知られざれる事項、医道の日本、昭和50年1 月号)
点への刺激よりも面への刺激を行うのは、内臓体壁反射理論的方法だと理解できる。

藤井秀二は、毫鍼を示指と母指で少し先が出るように摘まんで垂直にたたいていたが、後に「藤井式物療器」を考案した。この製品は小児鍼の一種であるが、極細金製の集毛針を皮膚に押し当てるもので、針がすぐに曲がってしまうので取扱には慎重を要した。今から30年ほど前までは、その藤井式物療器は市販されていて、当時でも2万円ほどした。したことを覚えている。現在では写真すらも入手できないようなので、記憶をたよりに再現した図を以下に示す。

 

 

4.かんの虫の針灸治療

 かんの虫に対する小児針は、小児のいわゆる健康増進の治療と同じであり、生後1か月頃から 5歳頃までを中心に行われる。身柱や頭項部を中心に全身的に行う。小児針だけで効果に乏 しい場合には、ちりげの灸(身柱穴への灸で気を散らす)や細い豪針にて全身的に浅刺する。
  小学生ではボディブラシ、乳幼児では歯ブラシを使用。以下の部位を3~5分以内で終わる ように、軽くリズミカルにサッサッと擦る。 施術部の発赤や発汗をもって度とするのが原則ともいうが、藤井によれば、これではド-ゼ過多に陥りやすいという。 

 

健康増進目的では、月初めごとに3日間連続して行う。特に異常のない小児に施術を受けると、その子供はその月中は元気で健康を維持できるという事実を大衆が知っていた。かんの虫の治療回数では、疳症状の弱い時は3回、強い時は5回、かん症状の取れにくい場合には7回前後、毎月反復して実施する。

 米山博久の経験によれば、不眠・不機嫌1~3回、夜泣き2~5回、奇声3~5回、食思不振 1~5回程度で十分であり、幼稚園児まで毎月継続することがよいという。(米山博久著:私の鍼灸治療学、医道の日本社、p78、昭和60年1月)

 


5.トーマス式小児針について

近年、トーマス・ウェルニッケ小児科医(ドイツ国際日本伝統医学協会会長)は、次のような見解を示した。
胎児が生まれる際、狭い産道を身体が一回転して通過するため、頸椎に異常をきたし、特に上位頸椎周辺の際を走行する脳神経である迷走神経・舌咽神経・舌下神経・副神経  (こ
れら4つの脳神経の始点は延髄)への圧迫が、疳症状につながる。
  
したがって、頸椎周辺が 固定化される(要するに生後3~5ヶ月)以前に、小児針治療を開始することが大切であるというもの。

営衛と宗気のイメージ化した解説

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江戸時代末期の異端の鍼灸医師、石坂宗哲の真骨頂は、古典学説の營衞と宗気を動脈と静脈に、後者を脳神経系と捉えたことにあると思っている。
こうした石坂宗哲の考えを理解するには、それ以前の伝統的な營衞と宗気について知っておく必要があるだろう。当時の中国人の頭脳になったような気持ちで考察してみたい。

1.營衞

1)衛気営血弁証のおさらい

外感熱病である温病に関する弁証で、主として「熱邪」による陰液消耗の経過を分析したもの。 衛気営血弁証の気や血は、基礎医学上の気や血とは異なる意味で用いられていて、病像には便宜上、衛・気・営・血という名前の4段階あるというように解釈する。表証は衛分証、裏証は気・分・血の各証に相当する。各証の概念は次の通り。

①衛分証
発病初期の段階。温邪を感受。この邪が口・鼻から入り、往々にして肺を犯す。
 ↓
②気分証
外感熱病の進行期。温邪が熱邪に変化して裏に入った状態。入った部位により症状は異なり、肺・胃・腸などの臓腑症状を呈する。
 ↓
③営分証
熱盛期にあたり、脱水が生じた段階。
 ↓
④血分証
陰の消耗がはなはだしく出血傾向を生じる。危急段階。

2)営・衛のイメージ

士官が陣営にいて、兵卒は周辺を防衛する。(「『史記』五帝本紀)
「営」は松明(たいまつ)で取り囲んだ建物。「衛」は外を巡回すること。ともに巡回する意味を含む。軍事用語であった營衞を医学に転用したと。 (林孝信 日本内経医学会研究発表   2010年1月10日)
このイメージをイラスト化してみた。陣地の内側に兵舎「営」があり、明で照らされている。周囲は棚で囲まれ、出入口の門(「腠理」がある。棚の外側には守備隊である「衛」が配置され、外敵から陣地を守っている。外邪は門から中に入ろうとするが「衛」はこれを防禦する。

 

3)衛の役割 

衛は水穀の悍気のこと。脈の中に入ることができないで脈外である皮膚の中や筋肉の中を走っている気。外邪を守衛する役割があることから、「衛」と名づけられた。(「素問」の痺論)
外邪が侵入してきた場合、まず最初に戦うのがこの衛気であり、高熱前の悪寒戦慄は、衛気が邪気に抵抗している一つの現れである。

4)営(=栄)の役割 
営は水穀の精気のこと。五臓を調和し六腑にそそぎ、よく脈に入る。栄とは消化吸収された栄養素のこと。現代の血液とほぼ同じ意味。血液そのものを営血ということもある。

 

2.古代中国の皮膚関連単語

上述のイラストでは、血管から皮膚部まで古典的に4層の組織を分けているが、現代医学での皮膚・皮下組織構造との対比を行った。


 1)皮毛
皮とは表皮と乳頭層部分のこと。毛とは体毛のこと。2つ合わせて皮毛という。

2)腠理(そうり)
腠理には、皮毛と筋肉の間という意味と、体液が出る場所という2つの意味がある。一般的には、後者の認識であることが多いが、体液がにじみ出る処という意味で両者は共通性がある。

① 皮下組織(皮下脂肪組織)をさす
「腠」は、「肉」+「奏」の合わさったもので、「奏」には集まるの意味がある。腠理とは人体の脈や筋などが集まったところの意味、具体的には、皮膚、筋肉、臓腑の間を指す。
真皮と筋肉の間の隙間である皮下組織部分も腠理である。真皮と皮下組織はゆるく結合しているので、動物の毛皮の採取には、皮を引っ張り、皮と筋肉間にある皮下組織部分をナイフで断ちながら剥いでいく。が、その剥がす断面を腠理とよんだのではないかと夢想している。真皮と皮下組織はゆるく結合している部分に、体液がにじみ出て、地下水のような形で皮下を流れていると考えた。

②体液が出る部
皮下を流れる地下水は、ところどころ井戸のような形で汗腺が口開け、皮膚表面に出てくる。これが汗である。体液がにじみ出る処という意味では、汗腺も腠理といえる。
この井戸の縦坑の断面積は一定でなく、広がったり狭まったりする。縦坑が広がることを、腠理が開くという。腠理が開く目的は、衛気を外に発散して外界に対する防御のためであり、津液を汗として体外に放出するためである。これを宣散作用とよぶ。
腠理が閉じる目的は、津液が体外に漏出することを防ぐことにある。これを固摂作用とよぶ。
    
3)肌肉と筋(すじ)

古代中国人は、筋肉を、肌肉と筋(すじ)に区別して認識していた。体幹の背部、胸腹部にある軟らかい筋を肌肉とよび、前腕、下腿にあるスジ状の筋肉を腱を含めて筋(スジ)とよんで区別した。

4)(血)脈

血管のことを脈という。血管には拍動するものと、しないものがあるが、拍動するものを動脈、しないものを血脈(けちみゃく)とよんだ。


3.宗気 

1)宗気の伝統的意味

宗気は気の種類の一つで、水穀が化生した營衞の気と、吸入した大気が結合して、胸中に蓄積された気のこと。宗氣の作用は、中国漢方医語辞典によれば「一つは上がって喉へ出て呼吸を行うもので、言葉・声・呼吸の強弱に関係すること。もう一つは心脈へ貫注し、気血を運行することである」とある。これは他の書籍をみても判で押したように同じことが書かれているのだが、それ以上の深い内容に乏しく、宗気をイメージすることは難しい。本当のところは誰もわかっていないのではないのではないかと疑いたくもなる。
納得のいく説明が欲しいものである。と

2)宗気とは雲のことか? 

①「雲」の漢字の象形 
私は、昔から宗気とは雲のことだと直感的に考えていた。古代中国人は雲の成分が雨粒だと正しく理解していたらしい、というのは「雲」の漢字は、「雨」+「云」に分解され、云は雲に隠れた龍が尾だけ出した状態という象形文字に由来するという。

雲に頭を隠した龍 https://www.47news.jp/24510.html

②人体中の雲の生成と宗気
自然界の水の循環は次のようになっている。
海などの水が太陽の熱によって蒸発し水蒸気となる。→上空で冷やされる→小さい水滴となる→この水滴が集合して雲になる→水滴が集合して重たくなると空中に留まれずに雨になって地上に落ちる。
 
この状況を、人体にたとえた蒸籠で再現すると、つぎのような図になる。
蒸し器の下に腎水が入れてあり、それを命門の火で温められ水蒸気になる。水蒸気は上るにつれ冷やされ、小さな水滴となる。それが集まって雲となる。古代中国人が蒸籠内の「雲」を発見し、宗気の概念を創作したのだろう。

保険灸について(代田文誌著「鍼灸読本」より)Ver.1.1

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 数年前私は代田文誌著「十四経図解 鍼灸読本」春陽堂刊を入手した。初版は昭和15年で、昭和50年代に再版された。今日ではそれも絶版となった。

 昭和13年の開所から昭和20年まで代田文誌は、茨城郡内原村にある満蒙開拓青少年義勇軍訓練所の衛生課の鍼灸部で、保険灸を施していた。義勇軍は満州に渡って後も引き続き保険灸をやることになっていた。富国強兵を国是としていた時代のこと、お灸という安価で簡便な方法が健康増進に役立つということで、国が保険灸を後押ししたのだろう。

その折、団員向けの小冊子を製作しようとのことで、昭和15年春陽堂から「鍼灸読本」を出版した。基礎的な内容なので本稿で特記すべき点はあまりないが、健康灸について興味深い内容を発見した。

いずれにせよ、戦争に負けて以後、この構想は頓挫し、戦後まもなく訓練所の建物も解体された。


1.三種類の保険灸

保険灸の義勇軍において、保険灸として以下の三種の規則をつくって灸をした。

1)健康「上」と認める者に、身柱・風門・大椎・曲池・足三里
2)健康「中」と認める者に、身柱・風門・大椎・四華・中脘・曲池・足三里
3)健康「下」と認める者に、身柱、風門、大椎・四華・肝兪・脾兪・腎兪・関元・天枢・曲池・足三里
 
註)四華:膈兪と霊台および八椎下(筋縮と至陽の間でTh7棘突起下)の計四穴のこと。潮熱・盗汗(肺結核時のような)、虚弱体質時に灸療する。

 

 

2.取穴理由

上記の選穴は、どうも代田文誌が考えたものでないらしい。多分そういう意図で選穴したのだろうと、人ごとのように書かれているからである。1)誰でも17~18才となると風門に灸した。これは風邪を予防し、同時に心臓の機能を整える目的。風邪は万病の始めであると古人は恐れていた。また同時に膏肓も併せて灸する。その意味はおそらく結核の予防と全身の活力を強めるためであったと思える。

2)24~25才ともなれば三陰交を加える。これは花柳病(=性病)の予防と生殖器を健康にならしめ婦人にあっては月経を整える爲であろう。

3)30~40才頃になると、足三里にすえる。これは胃を健康にし老衰を防ぎ、一切の疾病と予防し、その上長命を保つ方法とした。、
なお老いて視力の減弱を防ぐために足三里、併せて曲池へ施灸することもあった。

 

3.沢田流太極療法との相違点

「鍼灸読本」を出版したのは代田文誌40才の時だった。この年には「鍼灸治療基礎学」も出版し、翌年には「鍼灸真髄」も出版している。師匠の沢田健は文誌が38才の時に死去している。

「鍼灸治療基礎学」や「鍼灸真髄」は、沢田健の治療すなわち沢田流太極療法を大いに褒め讃えている。「鍼灸読本」にみる保険灸の取穴理論は、三原気論や五臓色体表を用いていないという点で本式の沢田流太極療法とはいえないが、沢田流基本穴に似た面があり、かつ一般人にとって考え方が合理的なので、理解しやすいものとなっている。

沢田流太極療法の説明

 http://blog.goo.ne.jp/ango-shinkyu/e/90e2d4cb08485c0c8c12a8780dd7d6e6


※沢田流基本穴:百会穴、身柱穴、肝兪穴、脾兪穴、腎兪穴、次髎穴、澤田流京門(志室穴)、中脘穴、気海穴、曲池穴、左陽池、足三里穴、澤田流太谿(照海穴)、風池穴、天枢穴など。(時代により多少変化あり)

4.田中恭平氏の「健康長寿の灸」 と神田勝重氏の「保険灸」

1)田中恭平の「健康長寿の灸」
2018年6月22日、匿名氏から田中恭平『灸の医学的効果』309頁「健康長寿の灸」の内容紹介コメントを頂戴した。田中氏は、内原の満蒙開拓義勇軍の内原訓練所衛生課内の鍼灸部で代田文誌と一緒に働いていた。

① 身柱、風門、足三里の五点 ‥‥健康上の者
② 身柱、四華、三里の七点‥‥‥ 健康中の者
③ ②に腹部基本灸四点と左右の曲池を加へた十三点 ‥‥健康下の者 
④ ①に膈兪、肝兪、脾兪、腎兪、腹部基本灸の十二点を加へた都合十七点‥‥健康下の者 

(「腹部の基本灸といふのは、私・田中恭平自身で決めた基本灸でありますから、書物には基本灸などと云ふ文句はありません。腹部基本灸の穴は中脘、天枢、関元。)

2)神田勝重氏の「保健灸」
上述の匿名氏は、神田勝重『灸療要訣』(日本書房)115頁「保健灸」についての内容も紹介してくれている。神田氏は序文で、『灸療要訣』の内容の大部分は、私の師 代田文誌先生が後日『鍼灸治療要訣』として刊行される草稿の中より必要と思はれるものを寫させて頂いたものである」と記している。神田勝重氏もまた内原訓練所に勤務していた鍼灸師。

①健康上と認めるもの‥‥身柱、風門、霊台、曲池、足三里
②健康中と認めるもの‥‥身柱、風門、四華、中脘、曲池、足三里
③健康下と認めるもの‥‥身柱、風門、四華、中脘、気海、腎兪、脾兪、次髎、左陽池、足三里、太谿


 

石坂宗哲が考察した営衛と宗脈 Ver1.2

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本稿は、ブログ「営衛と宗気のイメージした解説
https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=6b294c3841433e83f3a321c4b291a6df&p=1&disp=50
の後編に相当するものです。


1.石坂宗哲の時代的背景と年譜

甲府の鍼灸医家系の三代目として1770年に生まれた宗哲は、年少の頃から伝統的な鍼灸を学んでいた。青年時代の状況は記録に残っていないが江戸で鍼灸医として働いていたらしい。この功績が江戸幕府に認められ、1797年弱冠27才にして甲府の西洋医学校を創設するよう命じられ、鍼科顧問になった。31才で再び江戸に呼び戻され、寄合医師(江戸幕府への通い医師)、鍼科奥医師(将軍家の診療にあたる医師)、法眼(医師頂点の称号)と出世の道を歩むようになった。 
 
宗哲の特異な背景としては、幼少時(3才頃)杉田玄白らの『解体新書』刊行という時代で、西洋医学というものに触れる機会があったことと、42~46才に当時の医学・博物学の知識人シーボルトと交流した環境が関係しているといえだろう。シーボルトは日本の鍼灸を、宗哲からの話を聴くことで知った。宗哲が西洋医学を盲信する医師であればシーボルトは興味を示さなかっただろうし、東洋医学オンリーの医師であれば西洋医学との接点を見出し難く、シーボルトとの対話は成立しなかっただろう。  

1770年0才 江戸後期、甲府に石坂宗哲生誕。代々鍼灸医の家系を継ぐ。
※27才 甲府医学所(西洋医学校)設立。鍼科創設。
1801年31才 江戸に戻り、寄合医師になる。
1804年33才 奥医師(鍼科)となる。
1812年41才 法眼となる。
         この頃から蘭学と漢医学(東洋医学) の漢蘭折衷を模索。  
1822年~1826年 42~46才 ドイツ人医師シーボルトと交流
         自著『鍼灸知要一言』などをオランダ語に訳し、シーボルトに渡す。
         シーボルト帰国後、石坂宗哲は独自の理論を石坂流と命名。独自の鍼灸理論を追究した。
1826年 『知要一言』・『医源』・『宗栄衛三気弁』・『鍼治十二條提要』刊行。
1841年 『内景備覧』刊行。
1842年 72才 死去
       

2.伝統医学を刷新させるため西洋医学知識を利用

医学を志した江戸後期当時の若い医師は、新しいオランダ医学をすぐれたものだとして受け入れ、これまでの我が国の伝統的医学を無価値なものとして捨てるという風潮が多くなった。そうした中であっても、石坂宗哲は、西洋医学に惹かれる一方、先祖代から続いている伝統医学を捨て去ろうとする考え方にも賛同できなかった。

それどころか、中国古代の医学書のよく分からない部分をオランダ医学という別な角度から眺めることで、漢方医学を発展できるのではないか(知要一言)と考えた。その中核的内容として、人体を巡るもの(伝統医学では十二經絡)の実態についてであり、經絡と同じように身体を巡る存在である脳と脊髄、脳脊髄神経、及び血管系に着目した。
 
なお鍼灸伝統理論である陰陽五行という考えや、十二経脈の流注が一つながりに連続しているという考えを否定した。

 

3.営衛と動・静脈

1)解体新書にみる動静脈

松本秀士:動脈・静脈の概念の初期的流入に関する日中比較研究 或 問 WAKUMON 59 No. 14(2008)pp.59-80   より

動脈・静脈という訳語が与えられたのは「解体新書」(1774)からである。脈とは血の流れる管という意味で、動脈との名前は、<脈うつ脈管>によるもので、脈の打たない脈管は血脈(けつみゃく)と伝統医学でいう血脈(血液の流れる管、血管)をそのまま流用した。静脈と命名されたのは、その数十年後の1800年代からである。

杉田玄白は、人体をめぐる4種類のものは、動脈、血脈、筋、神經以外にないと記していて(『医事問答』1795)、十二經絡の存在を疑問視し、十二經絡とは動脈や血脈のことではないかと推察した。なお動脈は行くにつれて細枝に分かれ、一方、血脈は細枝行くにつれて太くなると理解したのは現在に通じる内容だが、解剖の技術が未発達なためだろうか毛細血管は発見するに至らなかった。だ

 


2)西洋における血液循環知識の発展

①ガレノスの血液巡行説 

ヨーロッパでもローマ時代の医師ガレノスが唱えた血液の流れについての生理学が17世紀になるまで信じ続けられていた。動脈と静脈がそれぞれ切り離されたシステムであると考えていた。ガレノスの特異な点は次の部分である。

 ・肝臓で、飮食物を材料として血液が製造される。
 ・静脈も動脈も血液を身体各部に運び、各所で水が砂にしみ込むように吸収され最後は消費されてなくなる。(その血液が静脈血となって集まり、心臓や肝臓へ戻ってくるとは考えなかった)
 ・血管は次の2種に大別される
   通気血管系:空気由来の血液を全身に運ぶ動脈血管系
     栄養配分血管系:栄養を運静脈血管系
 ・右心と左心を繋ぐ心中隔の多数の孔が、あり、右心から左心へ血液が流入する。

 


②ウイリアム・ハーベイの血液循環説

血液は心臓から出て、動脈経由で身体の各部を経て、静脈経由で再び心臓へ戻るウイリアム・ハーベイ(William Harvey1578年-1657年)は、右心と左心を繋ぐ心中隔に孔は発見できないこと、さらに血管を流れる大量の血液がすべて肝臓で作られているとするには無理があると考え、「血液の系統は一つで、血液は循環している。すなわち心臓→動脈→毛細血管→静脈→心臓という循環であることを証明した(1628年)。これは現代生理学と同じ内容であって、これにより心臓や血圧の正しい理解も誕生した。

 


3)石坂宗哲の営衛の考え方(『医源』より)
 
「解体新書」では、ウイリアム・ハーベイの血液循環説が紹介されているので、宗哲も心臓→動脈→細動脈→細静脈→静脈→心臓という循環は理解していた筈である。「心蔵は血脈を出入させている。これを栄衛と呼ぶ」とある。盤石のように思える西洋医学であっても、その進歩過程では紆余曲折があり、結局は実験や観察の結果といえる勝れた医学論文により旧来の学説を覆すに至った。血液循環説も、その誕生は意外に新しいことに驚く。


①動脈とは‥‥だろう

拍動している血管のことを栄とよび、中を動脈血が整然と進み、拍動して止まることがない。進むにつれて枝別れして、太さにより経絡・別絡・孫絡・支絡・細絡の区別がある。
内部から始まり、外部に向かう。
以上の内容から宗哲は、經絡イコール動脈血管と考えていたことが理解できる。

②静脈(血脈)とは‥‥

衛は拍動せずに入っていく。脈外を進み、途中各所に節(弁)がある。栄と同様に経絡・別絡・孫絡・支絡・細絡がある。外から始まって内に向かう、とある。
動脈と異なり、静脈の解釈は現代解剖学とは異なる。脈外を進むというのを、血管外と理解すれば静脈ではなく、これは<衛>の定義になる。
衛は栄の終る所から始まり、逆行して胸腹部に集まり、心臓の右側に入る。起始部は絡であり、その終点は経になる。つまり、栄と衛は互いの始まりと終わりの所で繋がり、経絡を受け渡し合っている。環に端がないのに似ている。以上の記載は、現代でいう静脈の走行そのものである。末梢から始まって心臓に向かうほど太い血管になるという点も矛盾がない。

衛は血管外を走るという点を考察してみた。人間は自分の上下肢や顔面などで外から皮膚を見ると処々に青黒いパイプのような血管を発見できる。これは皮静脈(皮下組織中を走る)で中には当然静脈血が流れている。ここを刃物で切ると動脈血管ほどでないにせよ激しく出血するだろう。ただし、このような表在血管部位でない場所を刃物で切っても、やはり出血する。たとえば擦り傷でも出血する。これ皮静脈から分岐して網目状に分布したさらに細い皮静脈を傷つけた結果である。宗哲はこれを理解せず、外部から視認できないところを傷つけて血が出るのは、血管外由来だと判断したのではないだろうか。このことから推察するに、表在静脈は栄が流れる部、すなわち動脈と理解したのではないかと考えたと思った。
 
外から見て視認できる血管は、表在性ほとんどは静脈なのだが、これを動脈と解釈することで、営衛と動静脈循環の整合性を導いた思われる。

 


4.宗気と脳脊髄神経

1)宗気は脳脊髄液のことか? 

石坂宗哲は、脳脊髄神から起こり、12対の脳神経、31対の脊髄神経の末端までの神経伝達の物質を宗気とよんだ。ちなみに<神経>との名称は杉田玄白らの『解体新書』で初めて用いられたnerveの和訳である。神気と経脈とを合わせたことに由来している。nerveは中国語でも神経である。

 「宗気は純白の水液にして脳髄より出でて一身に周行する」とある。脳脊髄は透明な脳脊髄液中に浸かっていて、そこから出た神経線維は身体全体を末梢まで走行しているという内容であれば、<純白の水液>とは、実は脳脊髄液のことを示しているのでないだろうか?というのも、純白という液体は、精液以外には思いつかない。正常な脳脊髄液jは透明だが、純白→無色→透明という意味合いの変化から上記の形容詞が使われたのかもしれない。脳脊髄液は脳脊髄膜外には存在しないが、透明な液体で全身を走行するという点からは、リンパ液も宗気に含まれると思った。ということは、宗哲は脳脊髄液とリンパ液を区別していなかったことになる。 


2)脳髄―精神―宗気論 
 
宗気が正常に生成され、身体をくまなく行き渡ることで、健全な精神が生まれる。精神は、精+神の複合語である。

①神とは大脳皮質機能のこと

正常な意識がなくなった状態を失神とよぶ。意識はあってもそれが正常でなければ狂である。神とは寒温を覚え喜怒哀楽の情を起こし、臭味を知り、事物を辧(わきまえ)る等、己に具えて己の自由となるもの。
※神を魂(たましい)ともいう。魂は鬼+云で、古代中国人は人は死んだら鬼になると考えていたので、この世にいない人の意味。云は雲で、空を意味する。従って、魂とは人の死後、雲のように周りを浮遊し、やがて天に帰っていくことを示す。陽に属する。



②精とは大脳辺縁系機能のこと

人が生まれる時、まず精があらわれる。精が成熟して脳髄が生じる。肺・心・肝・脾・腎・胆・皮肉(皮膚・皮下組織)・筋など、機能はあっても自分の意志でコントロールできないものを制御し、さらに生成老死へも関与する。
※精を魄(たましい)ともいう。魄は鬼+白で、白は白骨化した頭蓋骨のこと。
人は死後、魂がなくなった後、骨となって地に帰すこと。ゆえに魄は陰性である。

引用文献 47ニュースより 魂魄の語源について
https://www.47news.jp/24510.html


5.石坂宗哲の臨床

1)総説

①鍼の効能には、宗気とした神経系を調整することを補法、瀉血(静脈を切って鬱滞している悪血を取り除く)し、営衛の気を流通させるのを瀉法と位置づけた。(『鍼灸茗話』)

②すべての病気の本質は神経のマヒ(神経筋肉内の痺症)であり、鍼は神経や筋肉のマヒをとくものであるから、鍼はほとんどすべての病気に適応がある。

③極細の銀針を用いて、補法手技を多く使う。温和な手技で丁寧に時間をかけて必要な治療量を与えることと、背中を治療する場合、一般の鍼灸家なら正中線の外方1寸5分の輸穴や膀胱系二行線を主として治療するところだが、石坂宗哲は正中線から外方5分の夾脊穴上を好んで治療した。宗気の放散する起始点として、脊柱傍への刺激は広い適応がある。


2)治療の実際

石坂宗哲は、<定理医学>(真理に基づいた医学)の学問追究者として有名だが、石坂宗哲自身の鍼治療技術が明記されているものは実存しないので、現在となってはどのような治療方法が当時の石坂流の鍼にあたるのかは確定する ことはできない。
現代では町田栄治氏が第一人者とされていて、専門雑誌への投稿や著作「石坂宗哲流鍼術の世界」などの労作が知られている。町田氏の著作は入手できなかったが、後藤光雄氏の「石坂流鍼術の特質」をネットで発見できたので、その内容を簡単に紹介する。なお後藤氏は町田氏の生徒にあたる方である。

①神部の銀鍼、寸5または2寸を使用。

②誘導刺
誘導刺(杉山真伝流の管散術で、切皮したまま管ごとトントンと繰り返し叩打)を肩背部から腰部にかけてて脊椎両側に約5分間行い、深刺の準備を患者に与える。

③背部深刺
伏臥位にて、肝兪・脾兪・胃兪・三焦兪・腎兪;腎兪・大腸兪などと、その高さの夾脊穴に四診あれば深刺する。深刺しなければ深部の硬結はとれない。硬結がなければ刺さない。深刺は、ゆっくりと時間をかけて深部の硬結を揉撚し、置針の際も両手を離さず鍼をもったままにする。
後頭部では、天柱・風池・大杼・瘂門。以上に25分間。

④仰臥位
腹部(中脘;中管、陰交、関元;關元、章門、期門)、喉部(天突、人迎、甲状軟骨周囲)、肩甲上部(肩井、肩髎、肩外兪、秉風)以上に10分間。

⑤手足は補助的にのみ行い、普通は省略する。
 (治療時間は、計約40分間)


 


     

 

肩中兪深刺の理論と適用

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1.肩中兪深刺の適応
   
肩中兪(C7棘突起外方2寸)深刺では第1肋間(第1肋骨と第2肋骨間)に刺入できる。この刺針の適応は、頸部交感神経節刺激の他に、腕神経支配領域の症状に対する治療としての使い道がある。
     
腕神経叢はC5~Th1神経前枝から成っているが、腕神経叢から起こり、中府・雲門あたりの大胸筋部痛、肩甲間部痛、後方四角腔部痛に対して、効果あることが多い。一方、肘を越える前腕~手指症状は、腕神経叢部の前・中斜角筋刺針の方が効果がある感触である。このような前腕~手指症状がある場合、患側上の側臥位で、肩中兪深刺と天鼎から前・中斜角筋刺針(これも腕神経叢の傍神経刺)を併用する方が多くなった。

 

 2.傍神経刺としての肩中兪
     
木下晴都氏の肋間神経痛に対する傍神経刺は、棘突起の外方3㎝からやや脊柱方向に10°傾 けて4㎝ほど刺入すると記載されている。追試してみると良好な結果を得られたので、改めてその奏功理由を考察することにした。

つらつら考えるに、筆者(似田)は肋間神経に接触する外肋間筋を緩めたことが重要だと思うようになった。外肋間筋の上端は、第1肋間なので、そこを刺激する鍼ができれば、新たな治療となるのではないかと考えるようになり、肩中兪深刺を思い至った。この部位は第1肋間神経の傍神経刺激点であると同時に、腕神経叢の刺激点でもあるから、広汎な症状に対する治療ができる可能性もあった。

 

  
3.肩中兪の局所解剖  
     
下の二枚の図はTh1、Th2椎体レベルの横断解剖図である。2㎝程度の切断面の違いで、解剖図も非常に異なっているのに驚く。第7頸椎断面レベルでは肋間筋は現れない。Th1椎体断面では中・後斜角筋の内側に肋間筋は現れて いる。Th2断面でも無論、肋間筋は現れているが、肺に近いところにあるの で、この高さから 肋間筋は刺針すると危険であろう。要するに肋間筋刺激にはC7・ Th1間の外方3㎝あたりから深刺するのがよく、それ以外の高さでは不適切であることが理解できる。

 

 

 

 

 

4.取穴と刺針
   
臥位。大椎穴(C7T1棘突起間)の外側2寸(3㎝)。寸4番針にてやや脊柱側に向けて10°の角度で直刺4㎝。椎体の外側を擦るように刺入。外肋間筋に刺入する。木下氏の肋間神経傍神経刺では、数秒間置いて静かに抜針するとある。
※定喘:大椎の外方1㎝、 治喘:大椎の直側(外方0.5㎝) 

ケッペンの気候区分の手法による舌診分類の試み Ver.2.1

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1.舌質色
  舌(質)色は、血液の色が反映されている。主に寒熱を診る。情報は一次元的である。熱証であれば赤くなる。熱証には実熱と虚熱の区別がある。実熱は外感によるものであり、虚熱は陰虚(脱水状態)による(両者の鑑別は舌苔で行う)。
舌苔舌先や舌辺が鮮赤色ならば実熱。熱毒では紫色になる。寒証であれば舌色は淡くなる。 寒熱は、脈診でいう脈の遅数と相関性がある。


   ①淡紅舌(淡紅色): 正常な血色 → 正常、表証
  ②淡舌(淡白色):正常より薄い色 → 血虚、陽虚、寒証、気虚  →貧血
  ③紅舌(鮮紅色):正常より赤い色 →熱証(実熱) →感染症 または陰虚証(虚熱) →脱水
              舌苔無→虚熱、舌先や舌辺が鮮赤色→実熱。
  ④絳舌(こうぜつ)(深紅色):紅舌より赤が深い→熱極・陰虚火旺(虚火) →高熱感染疾患 
  ⑤紫舌(赤紫、濃い青紫、乾燥):熱毒 →チアノーゼ
  ⑥津液が無くなる -寒証:淡い青紫色、湿濁、血瘀:瘀斑、瘀点も生じる。 →低体温症

2.舌苔

1)舌苔とは
  舌の表表面は糸状乳頭という絨毯様の凹凸でおおわれる。糸状乳頭自体は無色透明だが、上部消化管(とくに胃壁)の細胞がダメージを受けると、その損傷を修復しようとして新生細胞の増殖が促進される。すると 舌苔の細胞分裂も促進され、糸状乳頭の角化が亢進して伸びてくる。
  伸びた糸状乳頭にいろいろな物が付いて舌苔ができる。舌苔の構成成分は、食物残渣、剥離した舌の上皮細胞、口腔内細菌及び、その代謝物などである。

2)舌苔の解釈
  中医学的には、消化管の奥からの「胃気」が蒸気のように管を上り、舌面に現れると考える。すなわち舌苔は胃腸管状態の状態を診るのに用いる。
   胃気=脾胃の働きによって得た後天の気の総称。胃気あれば生き、胃気なければ死すといわれる。胃気イコール食欲と捉えればよい。
  舌苔色は、主に寒熱をみる。舌苔が生え、色がつくには時間を要するので、併せて表裏(白は表、それ以外は裏)も併せて診る。
      舌苔が剥離したものを、剥離苔とよばれ、気の固摂作用の低下(気虚とくに胃の気)を意味する。
  ☆剥落苔:胃気・胃陰の衰弱  →胃障害
    鏡面苔:全体に剥離し、鏡面のようにテカテカ →胃気大傷、胃陰枯渇 →鉄欠乏性貧血
    花剥苔:一部が剥離し、テカテカ →胃気虚弱、胃陰不足 →胃障害 
 
3)舌苔の異常所見
   舌色は、卵の白身をフライパンで熱する時の変化に似ている。透明→白→黄と変化し、さらに熱せれば灰になり、その灰も黒くなる。つまり舌苔色は、舌質色と同じように寒熱の指標とる。ただし黒苔は暑いというレベルを超えて、極熱(=火傷)の徴候である。裏寒でも舌苔黒になるのは、凍傷の徴候であろう。
  一方、舌苔色は、舌質色とは異なり、表裏を示す指標にもなっていて、情報は二次元的であるが、舌苔色と舌質色情報とは相関性を示すので、これを一グループとみなすことは可能である。

  ①白苔: 白い苔  - 正常、表証、寒証
  ②黄苔: 黄色い苔 - 熱証、裏証(外邪が裏に入り、熱化)
       黄膩苔であれば裏熱実証、痰熱 →慢性胃炎
  ③灰苔: 浅黒い苔 - 裏熱証(乾燥、熱盛津傷)、寒湿証(湿潤:痰飲内停)  →慢性胃炎増悪
  ④黒苔: 黒い苔  - 灰苔 、焦黄苔からの進行(重症な段階) →高熱疾患の持続





4.舌苔の厚み
  病邪の程度、病状の進退の程度を知る。急性は薄く、慢性になると裏に入り舌苔も厚くなる。ただし慢性の期間が長引き、体力が落ちていくにつれ、舌苔は剥げてゆき、 最終的に消失する。
  ①薄苔: 見底できる(薄くて見底できる) →正常、表証、虚証
  ②厚苔:見底できない。 →裏証、実証。
    舌苔色は、寒熱と表裏の相関図が描けるのに対し、舌苔厚は、虚実と表裏の相関図が描ける。それは前図にも示しているように、左上が虚、右下が実になるような三次元図をを想像することである。

5.ケッペンの気候区分の手法の応用
1)ケッペンの気候区分とは
  舌診の習得は、脈診よりも容易だとされてはいても、分類そのものに一貫性がないので、理解習得に困難を感じる。そこで筆者は細かな解釈には目をつむり、ケッペンの気候区分の手法を、舌診の分類に利用することを思いついた。
 ケッペン Koppen はドイツの気候学者で、1923年に発表した植物区分で知られている。 降水量と気候という、わずか2つの条件の組み合わせにより、世界の気候を分類した。

 

 


2)樹林地帯と非樹林地帯の舌苔の有無
 気温の項を寒熱に、降水量の項を水分量に変更し、舌診法のうち、最も重要な舌質色と舌苔色について図式化した。ケッペンの気候区分では、まず樹林気候と非樹林気候に区分する。非樹林気候の条件とは、植物が生育できないほどの乾燥地帯あるいは寒冷地帯である。舌診では、舌苔ができるものと、できないものの区分に置き換えられる。しかし中医学の成書を読むと、中医学では乾燥では確かに「舌苔なし」になるが、寒冷地帯では「舌苔青紫」になる。ケッペンは寒帯を、氷雪帯とツンドラ帯に細分化しているので、「舌苔青紫」はツンドラ帯に相当するものとする。

3)熱帯・温帯・冷帯および灼熱帯の舌質色と舌苔色
 ついで樹林気候を、熱帯・温帯・冷帯(=亜寒帯)に区分する。健常者を温帯におくとして、その舌質色は淡紅色、舌苔色は白~淡黄である。これと対比するように、熱帯では舌質色は紅色、舌苔色は黄色に、冷帯では舌質色は淡白に、舌苔色は白になる。
 ケッペンの分類にはないが、筆者は気温の項に熱帯の上の段階として、灼熱帯(=熱毒)を加えた。灼熱帯は、時間的持続性で、焼ける前と焼けた後に細分化した。焼ける前は、焼ける前後で、舌質は絳(紅よりも深みのある紅)→紫になり、舌苔色は芒刺→灰・黒と変化する。

4)特殊形
①陰虚火旺:熱により乾燥しているのではなく、水不足で乾燥している状態。砂漠状態。舌質紅で、舌苔なしの状態。舌形は裂紋舌。

②気血両虚:舌色淡という観点から、冷帯に所属することがわかり、裂紋舌という点から水不足であることもわかる。したがって、陰虚火旺盛に類似しているが、陰虚火旺よりも  さらに寒い状態と理解できる。

③黄膩苔:ねっとりしている舌苔。ねっとりするには、大量の水と熱が必要だと考え、熱帯かつ降水量大の場所に位置づけた。

④)胖舌:気虚とくに脾気虚で生ずる。気虚により水を代謝しきれない状態。ここでは黄膩苔に似ているが、熱とは無関係なので、温帯かつ降水量大に位置づけた。胖舌の結果、舌縁に歯形がつくようになる。これが歯痕舌である。

 

 


石坂宗哲が考察した営衛と宗脈 Ver1.3

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本稿は、ブログ「営衛と宗気のイメージした解説
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の後編に相当するものです。


1.石坂宗哲の時代的背景と年譜

甲府の鍼灸医家系の三代目として1770年に生まれた宗哲は、年少の頃から伝統的な鍼灸を学んでいた。青年時代の状況は記録に残っていないが江戸で鍼灸医として働いていたらしい。この功績が江戸幕府に認められ、1797年弱冠27才にして甲府の西洋医学校を創設するよう命じられ、鍼科顧問になった。31才で再び江戸に呼び戻され、寄合医師(江戸幕府への通い医師)、鍼科奥医師(将軍家の診療にあたる医師)、法眼(医師頂点の称号)と出世の道を歩むようになった。 
 
宗哲の特異な背景としては、幼少時(3才頃)杉田玄白らの『解体新書』刊行という時代で、西洋医学というものに触れる機会があったことと、42~46才に当時の医学・博物学の知識人シーボルトと交流した環境が関係しているといえだろう。シーボルトは日本の鍼灸を、宗哲からの話を聴くことで知った。宗哲が西洋医学を盲信する医師であればシーボルトは興味を示さなかっただろうし、東洋医学オンリーの医師であれば西洋医学との接点を見出し難く、シーボルトとの対話は成立しなかっただろう。シーボルトが理解したわが国の鍼灸医学は、ほぼ石坂宗哲が説明した内容だった。  

1770年0才 江戸後期、甲府に石坂宗哲生誕。代々鍼灸医の家系を継ぐ。
※27才 甲府医学所(西洋医学校)設立。鍼科創設。
1801年31才 江戸に戻り、寄合医師になる。
1804年33才 奥医師(鍼科)となる。
1812年41才 法眼となる。
         この頃から蘭学と漢医学(東洋医学) の漢蘭折衷を模索。  
1822年~1826年 42~46才 ドイツ人医師シーボルトと交流
         自著『鍼灸知要一言』などをオランダ語に訳し、シーボルトに渡す。
         シーボルト帰国後、石坂宗哲は独自の理論を石坂流と命名。独自の鍼灸理論を追究した。
1826年 『知要一言』・『医源』・『宗栄衛三気弁』・『鍼治十二條提要』刊行。
1841年 『内景備覧』刊行。
1842年 72才 死去

 

 

2.伝統医学を刷新させるため西洋医学知識を利用

三代目の鍼灸医としての家系に生まれ、幼少の頃から漢方医学に浸かって育った石坂宗哲は、西洋医学に惹かれる一方、先祖代から続いている伝統医学を価値のないものとして捨て去ろうとする考え方にも同意できなかった。それどころか、中国古代の医学書のよく分からない部分をオランダ医学という別な角度から眺めることで、漢方医学を発展できるのではないか(知要一言)と考えた。
 
その中核的内容として、人体を巡るもの(伝統医学では十二經絡)の実態についてだった。具体的には脳と脊髄、脳脊髄神経、及び血管系に着目した。
その一方、いわゆる伝統理論に対する批判は痛烈だった。精神・宗気の道(めぐり)を見失って、陰陽五行という考えが唱えられるようになった。栄衛・経絡の真実を見失って、十二経脈の流注が一つながりにつながっているという考えが現れた。末流に登場した誤った説を信じて、源流にあった真実を捨て去ってしまったのだ。(『宗栄衛三気弁』)

 


3.営衛と動・静脈

松本秀士:動脈・静脈の概念の初期的流入に関する日中比較研究 或 問 WAKUMON 59 No. 14(2008)pp.59-80   より

1)解体新書にみる動静脈
 
動脈・静脈という訳語が与えられたのは「解体新書」(1774)からである。ハーベイの血液循環説発表は約150年以前のことだったので、解体新書には現代医学でも通用する血液循環のしくみ(心臓→動脈→小動脈。小静脈→静脈→心臓)という循環があることを証明した(1628年)。またその直後にマルチエロ・マルピーギの顕微鏡発明に伴い、毛細血管も発見された。これらの知見の後に、解体新書がわが国に入っていきたことは幸運だった。西洋医学でも17世紀頃まではローマ時代の医師ガレノスが唱えた血液巡行が信じ続けられていたからである。
 
ところで「脈」とは血の流れる管という意味で、動脈との名称は、<脈うつ脈管>であるところからで、その一方脈の打たない脈管は血脈(けつみゃく)と命名した。血脈との名称は、伝統医学でいう血脈(血液の流れる管、血管)をそのまま流用した。なお静脈と命名されたのは1800年代からであった。
 
杉田玄白は、人体をめぐる4種類のものは、動脈、血脈、筋、神經以外にないと記していて(『医事問答』1795)、十二經絡の存在を疑問視し、十二經絡とは動脈や血脈のことではないかと推察した。

 

2)石坂宗哲の営衛の考え方(『医源』より)
 
宗哲は心臓→動脈→細動脈→毛細血管→細静脈→静脈→心臓という循環は理解していたらしい。「心蔵は血脈を出入させている。これを栄衛と呼ぶ」とある。


①動脈とは‥‥

拍動している血管のことを栄とよび、中を動脈血が整然と進み、拍動して止まることがない。進むにつれて枝別れして、太さにより経絡・別絡・孫絡・支絡・細絡の区別がある。
内部から始まり、外部に向かう。
以上の内容から宗哲は、經絡はすなわち動脈血管と考えていたことが理解される。

 

③静脈(血脈)とは‥‥

「衛は拍動せずに入っていく。脈外を進み、途中各所に節(弁)がある。栄と同様に経絡・別絡・孫絡・支絡・細絡がある。外から始まって内に向かう」とある。
動脈と異なり、静脈の解釈は現代解剖学とは異なる。脈外を進むというのを、血管外と理解すれば静脈ではなく、これは<衛>の定義になる。
衛は栄の終る所から始まり、逆行して胸腹部に集まり、心臓の右側に入る。起始部は絡であり、その終点は経になる。つまり、栄と衛は互いの始まりと終わりの所で繋がり、経絡を受け渡し合っている。環に端がないのに似ている。以上の記載は、現代でいう静脈の走行そのものである。末梢から始まって心臓に向かうほど太い血管になるという点も矛盾がない。
 
 
衛は血管外を走るという点を考察してみた。人間は自分の上下肢や顔面などで外から皮膚を見ると処々に青黒いパイプのような血管を散見できる。これは表在静脈で中には当然静脈血が流れている。ここを刃物で切ると動脈血管ほどでないにせよ出血するだろう。
一方、このような表在血管部位でない場所を刃物で切っても、やはり出血する。これは皮静脈を傷つけた結果であるが、宗哲は皮静脈の存在を知らないことで、血管外と判断したのではないだろうか。このことから推察するに、表在静脈は栄が流れる部、すなわち動脈と理解したのではないかと考えたと思った。
 
外から見て視認できる血管は、表在性なのでほとんどは静脈なのだが、これを動脈と解釈することで、営衛と動静脈循環の整合性を導いたと思われる。

 

 
宗哲は、表在静脈を「動脈」とし、皮静脈を「静脈」とした?

 

4.宗気と脳脊髄神経

1)宗気は神経線維中を流れる水液のことか? 

石坂宗哲は、脳脊髄神から起こり、12対の脳神経、31対の脊髄神経の末端までの神経伝達の物質を宗気とよんだ。ちなみに<神経>との名称は杉田玄白らの『解体新書』で初めて用いられたzenew(オランダ語発音ゼニウ。世奴と表記。英語のnerve)を神経と和訳した。神気と経脈とを合わせたことに由来している。神経との和訳は、中国語にもなった。
nerveは中国語でも神経である。

「宗気は純白の水液にして脳髄より出でて一身に周行する」とある。純白というのは、神経線維の色調のことをさしていると思える。水液の意味は不明だが、神経線維を植物の茎に例えれば、茎の中の細い管を流れる水液のことを指しているのではないかと想像する。
要するに神経というパイプの中を、宗気という水液が流れている。

 

2)脳髄―精神―宗気論 

宗気が正常に生成され、身体をくまなく行き渡ることで、健全な精神が生まれる。精神は、古くからある中国語で、精+神の複合語である。


①神とは大脳皮質機能のこと

ここでいう神とは神様のことではない。神とは寒温を覚え喜怒哀楽の情を起こし、臭味を知り、事物を辧(わきまえ)る等、己に具えて己の自由となるもの。要するに大脳皮質の健全な作用を意味する。正常な意識がなくなった状態は「失神」、意識はあってもそれが正常でなければ「狂」である。

 


②精とは命の炎のこと 

精とは生命の元である。例えれば命のロウソクの炎のことをいう。両親のもつロウソクを炎を、その子に分けてやることで新しい生命が誕生する。誕生後に空気や飮食の力を借りて、心身が成長するにつれ、ロウソクの炎が大きなものになる。成人になると、ロウソクの火を新たな生命の誕生のために分けてやれるようになる。しかしやがては病や老化により、自分のロウソクの炎を保てなくなる。これが死である。

 

5.鍼の臨床

1)総論

石坂宗哲は、<定理>すなわち真実を追究した学者として有名だが、具体的な治療内容については、あまり記録が残されていない。少ないが治療原則として次の内容が知られている。 

①鍼の効能には、宗気とした神経系を調整することを補法、瀉血(静脈を切って鬱滞している悪血を取り除く)し、営衛の気を流通させるのを瀉法と位置づけた。(『鍼灸茗話』)
②すべての病気の本質は神経のマヒ(神経筋肉内の痺症)であり、鍼は神経や筋肉のマヒをとくものであるから、鍼はほとんどすべての病気に適応がある。
③極細の銀針を用いて、補法手技を多く使う。温和な手技で丁寧に時間をかけて必要な治療量を与えることと、背中を治療する場合、一般の鍼灸家なら正中線の外方1寸5分の輸穴や膀胱系二行線を主として治療するところだが、石坂宗哲は正中線から外方5分の夾脊穴上を好んで治療した。宗気の放散する起始点として、脊柱傍への刺激は広い適応がある。

 

2)治療の実際

石坂宗哲自身の鍼治療技術が明記されているものは実存しないので、現在となってはどのような治療方法が当時の石坂流の鍼にあたるのかは確定する ことはできない。
現代では町田栄治氏が第一人者とされていて、専門雑誌への投稿や著作「石坂宗哲流鍼術の世界」などの労作が知られている。町田氏の著作は入手できなかったが、後藤光雄氏の「石坂流鍼術の特質」をネットで発見できたので、その内容を簡単に紹介する。なお後藤氏は町田氏の生徒にあたる方である。

①神部の銀鍼、寸5または2寸を使用。
②誘導刺
誘導刺(杉山真伝流の管散術で、切皮したまま管ごとトントンと繰り返し叩打)を肩背部から腰部にかけてて脊椎両側に約5分間行い、深刺の準備を患者に与える。
③背部深刺
伏臥位にて、肝兪・脾兪・胃兪・三焦兪・腎兪;腎兪・大腸兪などと、その高さの夾脊穴に四診あれば深刺する。深刺しなければ深部の硬結はとれない。硬結がなければ刺さない。深刺は、ゆっくりと時間をかけて深部の硬結を揉撚し、置針の際も両手を離さず鍼をもったままにする。
後頭部では、天柱・風池・大杼・瘂門。以上に25分間。
④仰臥位
腹部(中脘;中管、陰交、関元;關元、章門、期門)、喉部(天突、人迎、甲状軟骨周囲)、肩甲上部(肩井、肩髎、肩外兪、秉風)以上に10分間。
⑤手足は補助的にのみ行い、普通は省略する。
                  (治療時間は、約40分間)

 

 

 


       

 


     

 

膝痛患者における鶴頂圧痛と内外膝眼圧痛の相違点 Ver.1.2

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筆者は、2018年1月26日のブログ「立位で膝関節症の治療をすることの意義」で、膝痛患者に対し、立位で膝関節周囲縁の圧痛を探り、圧痛部に速刺速抜刺法を行う技法を提案した。このやり方は、2ヶ月ほど臨床に使ってみて、非常に効果の高い治療法らしいことが分かった。また自分なりの見解もできたので、ここに整理することにした。

 

1.刺針体位の変更

刺針体位をベッド上での立位から、ベッド傍での立位に変更
以前のブログではベッド上に立たせて刺針すると記した。これは患者を自分の側に向かせて刺針することを考えた末の結果だった。間もなく患者を自分と反対側に向かせて刺針する方法に変更した。これによって施術者の腕や手首で患者の大腿部をしっかりとホールドできるようになり安定感が増した。ただしこの方法では、あえてベッド上に立たせなくても、ベッド方向を向かせて床に立たせるだけで、膝蓋骨周囲に刺針できることに気づき、この2週間前から、この方法に変更した。この方が、患者にとってさらに不安感は少なくなる。隣のベッドにいる患者を覗かれるという不安もなくなる。

 

2.鶴頂圧痛と内外膝眼圧痛の病態の相違点 

立位で膝蓋骨周囲の圧痛を探してみると、膝蓋骨の下半分、とくに内膝眼・外膝眼に圧痛を多く触知できることが判明した。それは仰臥位で膝蓋骨周囲の圧痛を探った時には発見できなかったもので、発見できたとしても、圧痛点の位置が微妙に異なっていた。こういう有様だから、仰臥位で膝蓋骨周囲に鍼を刺しても効果が劣ることが多いようだ。

なお私は数年前から、仰臥位膝屈曲位で、膝窩骨上縁の四頭筋停止部の圧痛を探して刺針することを行い、非常に良い治療効果が得られている。歩行時の膝痛軽減するほか、とくに膝が深く屈曲できるようになり、なかには正座ができるようになるケースもあった。鶴頂穴刺針とは、大腿四頭筋とくに大腿直筋の起始部刺激になる。このことは2017年11月15日のブログ「膝OAに対する針灸臨床 Ver.2.0」で発表済である。

そうなると次の疑問は、規定された肢位で行う内外膝眼刺針と、鶴頂刺針の相違である。この2者は、一つの病態を別の角度から診ているだけなのだろうかという思いもあって、現在当院に通院中の膝痛患者十人ほどを調べてみた。すると鶴頂に圧痛があって内外膝眼に圧痛がない者がいて、鶴頂に圧痛がなく内外膝眼に圧痛がある者がいた。少数ながら両部位とも圧痛のある者もいたのだった。この結果から、内外膝眼圧痛が意味する病態と、鶴頂圧痛が意味する病態は別物らしいことに気づいた。


私は鶴頂穴の圧痛は、四頭筋が短縮して伸張力低下の状況を診ていると考えている。
一方、内外膝眼の圧痛は、2018年2月18日のブログでは、四頭筋の収縮力低下による膝蓋骨位置の下垂、それに伴う大腿膝蓋関節の不適合具合を診ていると考察したのだが、半年経過した現在では、膝関節包の過敏状態を診ているというように変った。仰臥位膝伸展位で、内外膝眼の圧痛を診ると、圧痛ある者とない者に明瞭に分かれる。圧痛ある患者は、圧痛点から硬い組織(=関節包)までぶつかるまで1~2㎝刺針するのが普通で、この治療によりある程度の効果は得られるが、これには膝関節包の過敏性をゆるめるという意味がある。

仰臥位膝伸展位で、内外膝眼を押圧して圧痛点に刺針することは、立位にて行う内外膝眼の圧痛点に刺針する治効に及ばない。立位では、患者自身の体重荷重で、愁訴である膝関節痛が生じている訳で、この肢位にて内外膝眼の圧痛を探ることは正しい圧痛点把握となるからである。

 

 

耳鳴に対する鳴天鼓のやり方 ver.1.1

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1.鳴天鼓(めいてんこ)の再発見

ネットの面白情報チャンネル<らばQ>2017年9月20日の記事に、側頭部をタッピングすると、耳鳴りが軽くなるという内容があった。その方法を行った患者たちが喜ぶユーチューブ動画もあって、患者の喜ぶ姿をみて、これはすごい効果だと思った。効果があるなら自分の治療として取り入れることになる。

実はこの方法は、古典的内気功の「八段錦」の一方法で鳴天鼓(めいてんこ)とよばれているもの。私も三十年前に試したことがあったのだが、熱心に聴講していなかったせいか、間違った方法を覚えてしまっていて、大した効果は期待できないとの印象をもっていた。 

2.鳴天鼓の実際

1)方法

①両肘を左右に張り出し、手掌中央で耳穴をぐっと押さえて外耳道を密閉させる。
②そのまま頭の後ろに指を添えて、中指はお互いの方向を指す。
③中指の上に人差し指を乗せ、そこからはじくように人差し指を落として頭を叩く。その衝撃音が耳孔の空気を伝わり鼓膜に響くように感じる。
④1日2回、1回につき20~40回これを繰り返す。

 2)効果

効果には個人差がある。効く者は手を離すと耳鳴りが治まっていることに気づく。耳鳴が停止している時間は2~3分間だが、長く繰り返すほど止まっている時間が長くなる者もいる。

 

 

鳴天鼓の動画

https://www.youtube.com/watch?v=ajb37ie-Juo&feature=youtu.be

 

3.作用機序の考察

音波が耳孔から鼓膜に伝わる。鼓膜→小耳骨→前庭窓→蝸牛と伝わり、聴覚に影響を与える。
鼓膜に刺激を与えるという観点からは、下耳痕穴(耳垂が頬に付着する部の中央)からの直刺2㎝と同じ原理となるだろう。この刺針を行うと耳中に響く感覚が得られる。

「右耳管狭窄症で時々耳が遠く感じる」と訴える者に上記方法を行うと、施術直後頬が温かく血が通った感じがして気持ちよいという結果が得られた。温感が得られたということは、頸部交感神経緊張状態が緩んだことを意味しているので、星状神経節ブロックと同様の効能があるのだろうか。ベル麻痺の初期治療に星状神経節ブロックを行うことが多いが、それと同じような効果が得られるかもそれない。 今後耳鳴を中心とした患者に追試したい。


4.その後の考察

耳鳴患者に対し、鍼灸治療に加え、鳴天鼓を併用したり、多愁訴の一つとして耳鳴のある患者に対しては、鳴天鼓だけを行うこと約1年経った。当初の思惑とは異なり、鳴天鼓の治療効果はあまりないので、やっぱりダメかと希望を失いかけていた。そんなある日、耳鳴りを訴える患者が来院した。その人は頭の小さな人だった。ベッドに座らせ、施術者(私)と対峙させた。両手掌で耳孔をぴたっと塞ぐようにして、後頭部に両手指をもっていき、指を弾こうとしても、頭が小さいので両手の指がぶつかるような状況だった。そこで施術者の指を頭頂部あたりにもっていって指を弾くも、耳鳴は不変だという。そこで指を後頭部にもっていって弾くことにしたが、そうすると手掌と耳孔間が密着できず隙間が空くことになったが、後頭部を数回指で弾くと耳鳴りは消失したとのこと。すなわち手掌で耳孔を塞ぐことよりも、指で叩打する部位の方が重要なことを示唆させるものであった。結果的に、上述した<作用機序の考察>は的外れだったことになる。

今後、手掌で耳孔を塞がないで、後頭部叩打する方法と、術者の中指頭を患者の耳孔に入れ、示指で指を弾くようにするという2通りの方法の相違点を追究していきたい。

この症例を経験して以後、指で弾く部位は、以前よりも後頸部に近いものとなり、後頭部の玉枕~天柱付近が最適であることを発見。治療効果が増したように感じている。30回程度指を弾いて指を耳から離すと、耳鳴りが消失していることに気づくのが普通である。ネットで調べてみると、私の印象と似ている図を発見したので、引用し掲載しておく。

 

 

「秘法一本針伝書」<下肢前側の病の鍼>の現代鍼灸からの検討

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「秘法一本鍼伝書」は、柳谷素霊自身の臨床経験に裏打ちされた治療技法を集めたものである。古典派の大御所でありながら、古典理論に基づいていないという意味で、現代鍼灸派にとっても研究対象となると考えている。平易に書かれているが、奥深い内容をもっている。ある程度実力のある者は、自分のやり方と比較することで、勉強になる点を多々発見するだろう。これまで本ブロクでも部分的には取り上げてきたが、内容は不十分である。
このたび「秘法一本鍼伝書」の中から、<下肢後側痛の鍼><下肢外側の病の鍼><下肢前側の病の鍼>の3項目を取り上げ、3回シリーズとして現代鍼灸の立場から検討していくことにした。

※「秘法一本鍼伝書」は1959年に医道の日本社から出版されたが、長期間絶版状態になった。しかし2013年9月8日に(学)素霊学園から再版された。

1.「秘法一本鍼伝書」下肢前側の病の鍼(居髎)
(読みやすくするため、現代文のように若干文章を変えた)

1)取穴法
上前腸骨棘の最前側端に2本の腱様の硬結線状がある。外側のものは太く、内側のものは細い。その2筋の間を指頭で下圧するように押さえると陥没するところがある。これが本穴の居髎穴である。
※居髎は、教科書では上前腸骨棘と大転子を結んだ線上の中点にとる。大腿筋膜張筋中になる。

2)用鍼
3寸で2~5番の銀鍼、あるいは2~3番の鉄鍼

3)患者の姿勢
両足をのばして力を入れ、上体が動揺しないようにさせる。こうすれば前記した太い筋と
細い筋の間の陥没がますます深く顕著に指頭に感ずるものである。

4)刺針の方向
上前腸骨棘に鍼体を接触させながら、上方より下方に陥没の中央を目標に刺入する。すなわち腹壁に沿うようにして刺入する。

5)技法
鍼を静かに上下しつつ、進退動揺させながら刺入する。最初手に鍼尖のさわりが軽く感じるが、漸次硬物にあたるような感じがある。ニョロニョロするものに当たると鍼響があるものである。この鍼響が下肢前側に響くと効果ある。
細い筋との間の陥没がますます深く顕著に指頭に感じる。

6)深度
おおよそ2寸内外である。ただし皮膚に鍼尖を接したのみでも鍼の響きあるものもある。7)注意
もし響きがないときは鍼をゆるやかに上下させる。あるいは刺針転向法を行う。
なお膝中痛み、あるいは力のない時には鍼尖を膝蓋の中央に入れるようにして刺入する。補助鍼として、痛みには瀉法、力ない時には補法の鍼をする。


2.現代鍼灸からの解説

上前腸骨棘の最前側端には外側に大腿筋膜張筋腱、内側に縫工筋腱がある。
この腱間を潜るように深く押圧すると大腿直筋がある。押圧部あたりは大腿直筋のトリガーポイントに相当し、大腿前面~膝蓋骨に痛みを生ずることが調べられている。

 

 
刺針して大腿に響きを与えられない場合、所定の鍼を刺入したまま大腿直筋のTPを活性化させるために、患側大腿を少し挙上させて大腿直筋を緊張させた姿勢を保持してもらい、鍼の上下動の雀啄を行うと所定の響きを与えやすい。

上記の居髎刺針の深さは、2寸内外だが、「皮膚にと鍼尖を接したのみでも鍼の響きあるものもある」とも書かれている。これは縫工筋緊張により大腿外側皮神経が絞扼された結果だろう。

 

「膝中痛み、あるいは力のない時には鍼尖を膝蓋の中央に入れるようにして刺入する。補助鍼として、痛みには瀉法、力ない時には補法の鍼をする」との記載が文末にみられる。この技法と同様な意図(四頭筋緊張を緩める目的)で現在私が行っているのは、膝蓋骨直上の大腿直筋刺針で、鶴頂穴刺針になる。仰臥位膝屈曲位で、あらかじめ四頭筋を緊張させた状態で刺針するのがコツである。この技法は、すでに触れた。

「秘法一本鍼伝書」<下肢後側痛の鍼>の現代鍼灸からの検討

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1.「秘法一本鍼伝書」下肢後側痛の鍼(力鍼と裏環跳)

1)取穴法 
伏臥にさせ、腸骨稜上縁を外方から脊柱の方に指でなでると腰斤と接する処に浅い陷凹を感ずる。この部はおよそ脊柱から四寸のところで、指に左は∟の反対の形に、右は∟形に脊柱の両側にある筋状硬結物に突き当たる所がある。此の部を強く按ずれば陷凹がある。これをA穴とする(昔は力鍼穴といった)。

また小野寺氏の十二指腸胃潰圧診点に該当するところ所謂裏環跳穴をB穴(裏環跳穴)とする。脊柱から八寸位の処である。
※小野寺氏十二指腸胃潰圧診点:上前腸骨棘と上後腸骨棘の中点から下方3㎝の処
                                          

 

2)用鍼 
3寸の3~5番の銀鍼または2~3番の鉄鍼を用いる。

3)患者の姿勢 
患者をして伏臥せしめ、ザブトンを鎖骨部に敷き、これに軽く胸をつけしめ、上肢は緩く上方に曲げながら伸ばす。又は両拳を重ねてこれに前額をおく。両足は正しくのばし、全身いずれのところにも力を入れさせぬようにする。口を半開きにし、呼吸は口でするようにする。

4)刺鍼の方向 
A穴の刺入方向は脊柱と四五度くらい、皮膚と三十度ないし四十度くらいの角度で刺入。鍼尖が骨に当ったならば、それは真穴に当っていないので、刺鍼転向する。真穴に当れば足先まで響く。
B穴は鍼尖を内上方に向ける。これも骨に当るようでは深すぎると知るべし。皮膚との角度はA穴とほぼ同じ。

5)技法 
刺入した鍼を静かに進退動揺させながら刺入する。A穴では骨の上側、B穴では内側に向くようにする。鍼響が大腿後側に響くのが普通。

6)深度
二寸から三寸に硬い所から軟らかいところに達する。

7)注意 
鍼響があったら、手で合図するように患者に言っておく。応用は広く、坐骨神経痛、膝関節リウマチによる膝膕部の疼痛、冷湿による大腿後側強剛感、腓腸筋痙攣、脚気等。補助法として、殷門穴、浮?穴、委中穴、下委中穴、後中?穴には散鍼する。

 
2.現代鍼灸からの解説

1)A点(力鍼)

 

力鍼(りきしん)穴は、L4棘突起下外方4寸で腸骨稜上縁にある。腰方形筋上に位置する。なお腰方形筋は腸骨稜と腸腰靭帯に起始し、第12肋骨とL1~L4の椎体の肋骨突起に停止する。

力鍼穴から斜め内側に2~3寸深刺すると、腰方形筋をかすめて大腰筋に入れることができる。大腰筋刺針を行うには、普通は伏臥位にてL4、L5椎体棘突起の外方3寸(腸骨稜縁)からの内方に向けて深刺して大腰筋中に刺入するので、力鍼穴刺針そのものだといえるが、大腰筋刺針をするための患者体位は、患側上の側腹位で患側大腿を腹に近づけるよう、股関節と膝関節を屈曲させると、大腰筋が触知しやすくなる。大腰筋刺針では腰神経叢を刺激できるので、腰神経叢を構成する神経枝支配領域への鍼響を送ることができる。

 

腸腰筋トリガー活性化すれば、腰部・鼠径部~大腿前面に放散痛が出ることが知られている。腰神経叢から起こる閉鎖神経を刺激すれば、大腿内転筋群の緊張や大腿内側皮膚の知覚に刺激を与えることができるが、確実性に乏しい。なお力鍼刺針では仙骨神経叢を刺激できないので、下腿に至る針響は得られにくい。得られるとすれば仙骨神経叢に波及するほどの、腰神経叢の強い過敏性があるある場合であろう。  

 

 2)B点(裏環跳)

裏環跳とは、中国式環跳の位置でもあり、と同時に坐骨神経ブロック点の位置でもある。
大殿筋を通過して梨状筋を刺激し、梨状筋走行下の坐骨神経走行領域に広汎な針響を送ることができる。

 

 

座骨神経ブロック点刺針時の体位は、次のように梨状筋の緊張を伸張させた体位(シムズ肢位)で行うと針響が得られやすい。

 

 

 

「秘法一本鍼伝書」<下肢外側の病の鍼>の現代鍼灸からの検討

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1.「秘法一本針伝書」下肢外側の病の鍼(環跳)

1)取穴法
患側を上にした側腹位で、なるべく腹壁に大腿をつけるようにする。上前腸骨棘の外下方で曲がり目に太い筋がある。この筋の後側にゴリゴリするところがある。ここを指で押さえると大腿の外側に響く処がある。これを環跳穴とする。

2)用鍼
3寸の2番ないし5番の銀鍼、あるいは2番ないし3番の鉄鍼をもちいる。

3)患者の姿勢
前記した体位にせしめて取穴。患側の膝頭を両手で抱き、腹壁につけるようにすればなおよい。

4)刺針方向
皮膚に対して直刺。

5)技法
刺入した鍼を静かに状芸に進退動揺させながら刺入する。

6)注意
全身に力を入れ息を吸いこみ、そのまま止めて息を腹に貯えるようにする。かつ口を閉じ、鍼の響きがあれば直ちに抜く。下肢後側が痛み場合と同じ。
補助法として、丘墟穴、外丘穴、中涜穴に刺針する。


2.現代鍼灸からの解説 
 
ブログ「大腿外側痛の針灸治療」参照。本ブログと内容が一部重複している。
 https://blog.goo.ne.jp/ango-shinkyu/e/03c8b1fc1f9c88bc3814afbb3daad2a8

環跳の位置は現代でも2通りある。素霊の下肢外側の病の鍼の「環跳」は下記①の方法による。

①側臥位で股関節と膝関節を屈曲。その時できる鼠径部横紋の外側、大転子の前上陥凹部にとる(学校協会テキスト)、
②側臥位、大転子最高点と仙骨裂孔を結ぶ線を三等分し大転子から1/3の陥凹部にとる(韓国の標準テキスト)。
 
素霊の環跳刺針では、では中殿筋が伸張されて筋トーヌスが高まっている状態で中殿筋中に刺針できるので、針響が生じやすくなる。
中殿筋は、基本的に股関節外転筋で、大腿骨頭を骨盤に引きつけて歩行を安定させる作用がある。

本筋の緊張では腸骨稜に沿う痛み他に大腿外側に放散痛を生じる。
また中殿筋の深部には小殿筋がある。その機能は中殿筋に準ずるが、小殿筋放散痛は大腿後側にとどまらず、膝関節を越えて下腿後側や外側まで生じるという特徴がある。
つまり症状が大腿外側までならば中殿筋を、膝を越えて下腿にまで及べば、さらに深刺して中殿筋の奥の小殿筋にまで刺入するとよい。

 

 

 

 

 

 

 


 

「秘法一本鍼伝書」④にないが<下肢内側の病の鍼>の現代鍼灸からの検討

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柳谷素霊著「秘法一本鍼伝書」には、下肢内側の病の鍼の記載がないが、現代鍼灸での方法を説明することにした。下肢前側・外側・後側の痛みの鍼に比べて、内容はシンプルである。

1.大腿内側の病の現代鍼灸

1)大腿内転筋の解剖

大腿内側には次の5つの大腿内転筋群がある。すなわち恥骨筋・長内転筋・短内転筋・大内転筋・薄筋であり、いずれも閉鎖神経支配である。なお閉鎖神経とは、腰神経叢から起こり、骨盤の閉鎖孔を貫通して大腿内側の皮膚と大内転筋の運動を支配している。

 

 

 

2)閉鎖神経痛の治療

L4棘突起下外方4寸で腸骨稜上縁に力鍼(りきしん)穴をとる。ここからの腰椎突起方向への深刺で腰神経叢刺激になる。閉鎖神経(L2~L4)は腰神経叢から出る枝なので、理論的には深刺で、大腿内側に響かせることができる。健常者でこれを再現することは難しいのだが、閉鎖神経痛患者では、本神経が過敏になっているので、理論的には可能である。


3)大腿内転筋の筋膜痛

5種類の大腿内転筋のうち、とくにどの内転筋が緊張しているかをまんべんなく押圧して調べる必要があるが、患側を下にした側腹位で、押圧すると圧痛が捕まえやすくなると思う。(少し強く押圧するだけで患者は非常に痛がるので注意)

①大腿内転筋で、最大の筋力をもつのは大内転筋である。
→陰包付近の圧痛を調べる

 

②長坐位で開脚し、上体の前屈を行うと、大腿内側恥骨寄りに太く隆起した筋緊張を感じる。これは長内転筋である。

 

この筋を緩めるには、局所である足五里や陰廉などに刺針したまま運動鍼を行うとよい。具体的にはパトリックテスト肢位で刺針し、股関節の内転外転運動を行うようにする。

 

4)坐骨神経痛の治療

下腿内側痛は、坐骨神経痛の部分症状であることが多く、坐骨神経ブロック点(=裏環跳穴)刺針が有効になることが多い。


「秘法一本鍼伝書」⑤<上肢外側痛の鍼>の現代鍼灸からの検討 ver.1.1

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最近の当ブログでは「秘法一本鍼伝書」中の下肢痛の鍼を4パターンに分け、現代鍼灸の立場から解説した。同じような形式で、上肢痛は2パターン分けて説明する。

1.「秘法一本鍼伝書」上肢外側痛の鍼(肩髃)

1)取穴法

肩関節上際部で上腕を挙げて凹みが出るところがある。この凹みに前と後の2カ所あり、前の凹みが治療穴である。この凹みのところに指端をあてて一応手を下垂する。それから患者をして上肢を外転そして内転させると、指端に太い筋が現れたり隠れたりするのを感ずる。外転させた時に太い筋が指下にきたり、内転させるとその筋前方に転移して指下には只やや陥凹の感を得る。これが穴である。肩髃穴である。

2)用鍼
寸6ないし2寸の2番を用いる。毫鍼の銀鍼または鉄鍼でよい。

3)患者の姿勢
正座させて両手は穏やかに下垂させ、手は自然の位置に垂れ、力を入れぬようにさせる。


4)刺針の方向
上方より穴所から垂直に、つまり上腕骨の縦側に沿うように刺入する。


5)技法
鍼を進退(刺入し、入れまたは引く)するにあたり、や左右に揺するごとく刺入する。もしくはゆるい間歇法を行う(これを古法では白虎揺頭の法)という。

※白虎揺頭の法:「金筋賦」にみえる刺針手法の一つ。基本的には深層まで刺針し、得気したのち浅層まで引き上げ、虎が頭部をゆらすように振顫する手法。


6)深度
針響が橈側に響くのを度とする、響いたら抜針する、患者が刺針によって重圧感を感じなければ弾振する。重圧感覚を訴えたら鍼を直ちに抜除する。

7)注意
患者が鍼を抜除した後でも重圧感を訴えたら円鍼を用いる。または渋滞のところに散鍼する。もし針響が予期どおりない時は、いったん抜いて刺し直す。
総じて、上肢外側の痛み・神経痛・リウマチ・肘腕の関節炎には呼吸の瀉法を、麻痺・鈍麻・痒癢(かゆい、くすぐったい)には呼吸の補法を用いる。


 

2.現代鍼灸からの解説

1)肩髃穴の取穴

「上肢を90度外転させてできる肩甲上腕関節の上際にできた2つの陥凹のうち、前の方の陥凹」というのが広く知られている<肩髃>穴の取穴法である。後の陥凹が肩髎穴になる。しかしこのような表現は解剖学的に曖昧で、昔から疑問だった。ひとつの取穴法として、上腕骨大結節を術者の母指と示指でつまむようにすると、肩髃と肩髎を同時に取穴できるというものがあったので、自分では結節間溝(大・小結節間)部が肩髃、大結節後の陥凹が肩髎とすることにした。しかしながら十年ほど前、肩髃穴の前方に<肩前>という新穴があることを知った。肩前穴は、上腕骨小結節と大結節の間にある結節間溝を走行する上腕二頭筋長頭腱部になるから、必然的に<肩髃>は、大結節と肩甲骨肩峰端の間隙に取り、肩髎穴は上腕骨大結節の外方陥凹部と肩峰端との間隙であると考えるようになった。 臨床的意味合いは次の通り。

上腕二頭筋長頭腱刺激→肩前穴
棘上筋腱刺激→肩髃穴
棘上筋腱刺激→肩髎(あまり使わない)


 

 

 2)上外側上腕皮神経痛に対する肩髃から曲池方向への水平刺刺

肩関節上外側の痛みは、三角筋部に相当し、この皮膚知覚は上外側上腕皮神経知覚(腋窩神経の分枝)支配である。腋窩神経の本幹は小円筋・三角筋を運動支配し、腋窩神経はさらに肩関節包下方を知覚支配している。

すなわち三角筋の痛みであるかのように見えるものは、実は上外側上腕皮神経痛による。そのため筋膜に対する刺針よりも、皮膚に対する水平刺または皮膚の刺絡の方が効果的になる。皮膚の痛みは皮膚を撮むように触診すると過敏点を検出しやすく、発見した撮刺点を貫くような水平刺を行うとよい。
その典型が、肩髃から曲池方向に水平刺である。この一本鍼は、清脳開竅法(天津の石学敏により開発された脳血管障害の鍼灸治療法)での脳血管後遺症としての肩関節痛の治療とほぼ同じものである。

 

 

 

しかしながら私の臨床経験から、上述した治療を行っても、直後効果のみで終わることが非常に多かった。この領域の皮膚を刺絡してみても、効果あるのは治療当日のみで、翌日には元に戻るのが普通だった。
上腕外側痛を生ずる、もっと本質に迫った治療があるのではないかと考えるようになった。

 

2)棘下筋の放散痛に対する天宗刺針

トラベルのトリガーポイントの図を見ると、上腕外側痛は、棘下筋のトリガー活性化に由来することでも起こるようだ。天宗穴あたりの圧痛点に4番程度の鍼を置いておき、まずは側臥位で上腕外転の介助自動運動を実施。すると次第に外転可能な範囲が広がることが多い。同じことを坐位で実施(上腕外転運動は重力に逆らうのでより強刺激になる)。

時には棘下筋の伸張を強いるので、上腕外転に軽度障害も生ずることが多い。このような場合、圧痛ある天宗に4番針以上で刺針すると上腕外側痛と上腕外転制限に効果あるようだ。
陳久性で棘下筋の緊張が強く、肩関節外転のROMは正常だが、それでもスポーツ時の動きが悪いという患者に対しては、天宗刺針で効果不足の場合には、上腕を自動的に外転させた肢位(棘下筋の収縮状態)でこの刺針をすると効果が増大する。もっと強く棘下筋を伸張させるヨガの「ネコの背伸びのポーズ」をさせた状態で圧痛ある天宗に雀啄刺針をするとよい。

 





肩関節症の部分症状として上腕痛が生じるケースは多いので、肩関節可動域の検査とくに外転と外旋や、結帯と結髪ADLは調べるべきである。

※結帯動作:肩関節の伸展+内転+内旋の複合動作。帯を結ぶ時のように手を腰に回し、できるたけ上方に移動させる。母指とC7棘突起間の距離を測る。
※結髪動作:肩関節の屈曲+外転+外旋の複合動作。髪を後で結ぶように、手を後頭部に回す動作ができるか否かをみる。中指と同側の肩甲骨下角の距離を測る。

 

 

 

 

 

 

 

 

「秘法一本鍼伝書」⑥<上肢内側痛の鍼>の現代鍼灸からの検討 

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1.「秘法一本鍼伝書」上肢内側痛の鍼(肩貞)

1)取穴法
後腋窩紋頭の内上方約2寸を下からナデ上げると、内上方から外下方にむかって太い筋肉が指に触れることができる。この筋の下縁に指頭を突っ込むように強圧すると有感的に響く処がある。本穴はここに取る。いわゆる肩貞穴である。

2)用鍼
寸6ないし2寸の3番の銀鍼または鉄鍼を用いる。

3)患者の姿勢
正座して手を下垂させ、拳を握らしめ、閉目させて呼吸を静かにさす。

4)刺針の方向
鍼尖を穴の部から内上方に向かうように刺す。取穴の時に述べた筋層の下に鍼を刺すように心構えて刺入する。硬物につき当たったならば、瀉法を行う。

5)技法
患者をして吸息させる同時に、鍼を進退しつつ左右に動揺させながら刺入する。鍼の響きが小指側に響けば刺入をやめる。

6)深度
約1寸3分ないし2寸近く刺入。鍼尖、硬結物に当たり、小指側に響く程度でやめ、弾振する。

7)注意
針響強劇にして患者圧重倦怠感ありといえば直ちに退け、皮下まで鍼尖を抜き上げ、患者をして呼吸させて抜除する。補助法として鍼尖を缺盆穴に水平にあて、やや外方に向かうようにして刺入する。これまた小指側に響くように刺すべし。首の側面、肩背に響く場合は、鍼尖を転向させて上肢に響くようにすべし。

 

 

 2.現代鍼灸からの解説

1)後方四角腔の局所解剖

後腕と肩甲骨間にできる陥凹を、後方四角腔とよぶ。後方四角口腔は、上腕三頭筋外側頭・上腕三頭筋長頭・大円筋・小円筋が四辺を構成していて、腋窩神経が深層から浅層に出てくる部である。

 


後方四角腔に直刺すると腋窩神経を刺激できるが、腋窩神経には知覚神経成分がないので、響きを生じることはない。
内上方に向けて斜刺すると、小円筋に刺針できる。一本鍼伝書<上肢内側痛の鍼>は、小円筋に対する刺激になるだろう。しかし小円筋刺針は上肢外側に響くことはあっても、上肢内側に響きは得られにくい。

 

 しかしながら肩貞から、小円筋を貫通して、肩甲骨と肋骨間に入れるような深刺をすると、肩甲下筋を刺激できる。肩甲下筋トリガーポイント活性時、その放散痛は、上肢内側に放散する。なお、肩甲下筋は、肩甲下神経の運動支配である。

 

 

 

 肩貞穴から肩甲骨と肋骨間に入れるような深刺で上肢内側痛に効果があるのならば、膏肓など肩甲骨内縁の穴から、肩甲骨内と肋骨をくぐる深刺も効果あるに違いない。
ということで実際にやってみる。3寸鍼を使い、2寸以上深刺すると、ズキンというような響くポイントに命中し、その直後からつらい症状が改善することを何例も経験できた。

実際の臨床にあたっては、患側上の側臥位で、肩甲骨の可動性を改善することを目標として、肩貞または膏肓から深刺し、介助しながらゆっくりと上腕の外転運動を行わせるようにすると効果的になる。 

 


 ※肩甲上神経:棘上筋・棘下筋を運動支配。知覚神経支配なし。肩関節包上部と後部を知覚支配
 ※腋窩神経 :小円筋・三角筋を運動支配。上外側上腕皮神経として上腕外側を知覚支配。肩関節包下部を知覚支配

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

道教によって影響をうけた古代中国の生命観 Ver.1.4

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1.序

『黄帝内経』が編纂されたのは漢の時代(BC202~AD220)だとされている。当時、道教は儒教とならんで、中国人の精神構造の基盤となった。中国の古代医学も道教の影響を強く受けていたと考えられる。道教を学習することは中国の針灸古典の背景を知る上でも興味深いことである。

私は鍼灸学校卒業してすぐの頃、道教の古典的名著であるアンリ・マスペロ著川勝義雄訳『道教』東洋文庫、平凡社刊 昭和53年(1950年原著出版) を購入して読んでみた。この著作は「道教とは何か」に対する一つの確固たる回答であり、欧米の学会に大きな刺激を与えたという。しかしそれでも35年前の私にとっては難解すぎた。それを今になって読み返してみたが、今回は意外にも興味深く読むことができた。というのも、東洋医学に対してある程度の知識や経験をもったので、本書を自分の考えと対峙しながら、読めたのが原因だろう。道教の興味深かった点を、筆者の解釈を加えて紹介する。



2.著者アンリ・マスペロ Henri MASPERO とは

フランス人中国学研究者アンリ・マスペロ(1883-1945)は、研究途中で「道教」について、自分がほとんど何も理解していないことを改めて知った。その上で、道教は儒教とならんで中国人の精神構造を知る上での鍵であるという事実に突き当たった。マスペロは当時の道教の歴史と文献を学問的に探ろうとした最初の人であった。マスペロが生前に発表された原稿は少なかったが、死後書斎を整理してみて、道教については膨大な未発表原稿が発見された。
これらの原稿は、マスペロの妻と友人が整理して本書として誕生した。本著は、西洋の者が道教を知る上で最もスタンダードなものとされている。なおマスペロは1944年ドイツに拉致され、その翌年獄中で非業の死をとげた。マスペロは日本語学習の必要性を理解し、我が国にも2年間滞在したことがある。


3.不死への修業

道教では死んでしまえば霊魂も消えてなくなると考えていたので、生き続ける身体の保持の方法が興味の対象となった。その方法は単なる延命ではなく、生きている期間内に不死の身体に取り替えることだった。
身体を不死にする方法は、養形と養神に区分され、それぞれに対して様々な実践的なプログラムが用意されていたが、どれも厳しい修行を必要とした。  
 
養形:物質的な身体の老衰と死の原因の除去。 →食餌法や呼吸術
 
養神:身体内部にいる種々の超越的存在(悪さをする精霊、霊魂など)ににらみをきかせ、自分勝手に悪さをさせない。 →精神集中や瞑想


4.呼吸法 

臍下丹田の「丹」には赤いという意味があり、「田」は生産する場所という意味がある。すなわち丹田は、生き続けている間、生命の炎が燃えている場所と考えていた。この丹田では精を養う場所だった。火が燃え続けるには空気が必要だが、普通の呼吸法では空気は肺にまでしか入らない。丹田の炎を大きく燃やし続けるには腹まで空気を入れるべきであると考えるようになった。その方法とは次の2通りある。 

1)胎息(息を飲み込んで消化管に至らしむ)

呼吸器官は胸までしかないが、消化管は食道を通って腹全体に配置されている。息を吸うのでなく、息を飲み込むようにすることで胃腸に空気が入るから、臍下3寸(=関元に相当)にある丹田の炎を大きく燃やすことで精を養う能力を増やすことができる。臍下丹田にある精が、そこに入ってきた空気と結合して神(=正常な意識。この神というのは霊魂とな別物)が生ずる。
 
腹にまで空気を入れる呼吸法を胎息とよぶ。これは母の胎内における胎児の呼吸の方法だからである。
臍下丹田に入った気は、その後に髄管によって脳に導かれ、脳から再び胸に降りていく。3つの丹田(後述)をこのように回り終えたら、口から吐き出される。あるいは単に気を巡らせるのではなく、気を身体の中で意のままに動きまさせる。病気の時は、疾患のある場所を治すため、そこへ気を導く。

2)閉気(息を閉じ込める)

凡人は、吸った空気はすぐに吐いてしまうから、空気の中に含まれている滋養を充分に吸収できない。気を深部にまで巡らすには、長時間息を止めておく(閉気)ことが必要である。閉息して、気のもつ滋養を吸収できる時間をできるだけ長くする。


5.食餌法

1)三つの丹田の働きを妨げる三虫

身体を、上部(頭と腕)、中部(胸)、下部(腹と脚)に三分割できる。各部には上丹田・中丹田・下丹田とよばれるそれぞれの司令部がある。丹とは紅と同様な意味で、炎に通じている。生命の炎が燃え続けているためには、気(空気)は不可欠である。

上丹田:脳中にあり、泥丸(ニーワン)宮という。これはサンスクリット語のニルバーナ=涅槃に由来している。上丹田は知性をつかさどる。なお涅槃(ねはん)とは煩悩から超越した境地のこと。転じて聖者の死を涅槃というようになった。上丹田に行く気が不足すれば知性を失う。

中丹田:心臓のそばには絳宮(こうきゅう)がある。絳(こう)とは深紅の意味がある。
血液循環の元締めだからであろう。心拍数の増減させること、すなわち感情の起伏に関与している。

下丹田:臍の下3寸の処(関元の部位)にある。下丹田は精を養っている部で、精に気が注入されて初めて神(正常な精神)ができる。精力(精神や肉体の活動する力)をつくる源でもある。

 


2)辟穀(へきこく)-三虫退治のために 

三つの丹田にはそれぞれの守護神がいて、悪い精霊や悪気から丹田を守っている。しかし守護神のそばには有害な三虫あるいは三尸(=屍)がいて丹田を攻撃して老衰や病気の原因をつくる。道士(道教の修業者)は、できるだけ早く三虫を取り除かねばならない。穀物を食べると、必然的にカス(大便の材料)が出て、カスは濁気を醸成する。この濁気が三虫を滋養し、疾病を起こす。三虫を取り除くには、穀物を絶たねばならない。これを辟穀(へきこく)とよぶ。辟穀は道士修業の基本である。穀物の代りに松実・きのこ・薬草などを食して体内の気を清澄に保つ。
                                   

2)霊薬としての丹薬

①丹薬の製造

辟穀しただけでは、三虫を絶滅しきれず、丹薬の服用も欠かせすことができない。丹薬は丹砂(=辰砂)ともいい、自然界では硫化水銀として存在している。純粋な丹砂は、朱色だが、普通は不純物を含むので暗褐色である。丹砂を炉400~600 ℃ に加熱して出た蒸気を冷やすことで水銀を取り出す。
水銀蒸気は目にみえず、瞬時に蒸発してなくなる。この段階では見えないものを集めなくてはならないので、2000年前の中国人が水銀精製法を発明したことは驚きである。熱を加える作業をした職人は、おそらく霊薬中毒(=水銀中毒)で発病しただろう。

水銀がなぜ霊薬だと思ったのかは定かではないが、水銀は金属でありながら重い液体であり、さらに常温でも気化(重さがなくなる)して次第に消滅することなどの特性があることなどが考えられる。

古代ヨーロッパの錬金術師が、鉛などの卑金属を金に変える際の触媒となると考えた霊薬は辰砂のことで、辰砂は西洋では「賢者の石」ともよばれる。賢者の石との名称は、童話「ハリー・ポッターと賢者の石」ですっかり有名になった。

 

 

 

 

 


②丹薬の効能

丹薬は永遠の命や美容などで効果があると信じられていた。丹薬が永遠の命を実現できるものとする考え方は、遺体を辰砂溶液に浸しておくと、いつまでも腐敗しないという実例がヒントになっているのだろう。ちなみに昭和天皇の遺体も布にくるまれた後、辰砂液につけられ、真っ赤だったという証言もある。天皇のような高貴な身分の人は、死去から遺体を埋めるまでに相当な期間を要するので、腐敗を防ぐ手立てが必要になったという。

秦の始皇帝は永遠の命を求め、水銀入りの薬や食べ物を摂取していたことによって逆に命を落とした。他にも多数の権力者が水銀中毒で死亡した。当時から、丹薬服用の危険性は知られていた。しかし至高の価値を得るためには、命を預けた賭けが必要で、また人格によって毒にも薬にもなるという人格が試される試験でもあった。
なお稲荷神社の鳥居や神社の社殿などの塗料して古来から用いられた朱の原材料も、水銀=丹である。丹は木材の防腐剤として使われてきた。朱色は生命の躍動を現すとともに、古来災厄を防ぐ色としても重視されきた。

※現代での有機水銀中毒事例としては水俣病が知られている。

 

3.錬金術と錬丹術

古代から西洋では錬金術として金の抽出が行われていた。これは金鉱石を砕いて水銀を加えて加熱し、水銀蒸気を蒸発させて純粋な金をつくるものだった。卑金属から貴金属をつくる研究も行われたが、これらは失敗した。しかし近代化学の基礎を築いたという点で評価されている。

錬金術と錬丹術における霊薬の製法には、共通点があるので、錬金術を研究することは練丹術の研究にもつながった。しかし中国では錬金術よりも錬丹術が重要視された。すなわち黄金よりも永遠の生命に価値が置かれた。山奥の洞窟に住み続ける古代中国の仙人は、練丹術を修得しているとされた。仙人はたまに町にでかけることもあるということで、何とか彼らに出会って、その秘法を教えてもらうのも一つの方法とされた。そうした仙人の住む深山の世界は、水墨画において幽玄を感じ取れるものとして描かれている。 

 

 

 

 

☆中国の柴暁明先生が、上記の私のブログを中国語に訳して下さいました。感謝致します。文面は次の通りです。

現代の中国でも、上流階級の者を中心に、道教の辟穀は流行っているようです。
何万元から何十万元でもかかって一週間の辟穀修業する方も結構多いそうです。 新聞記事を鵜呑みにして、浅い知識で勝手に今週辟穀しようと宣言する庶民たちは少なくないです。
このブログは、中国人にとって必要な基礎内容です。私は翻訳する前は、道教に対する認識も薄かったですが、このブログのお陰で、以前より深く認識できるようになりました。

 道教によって影響をうけた古代中国の生命観 Ver.1.3

https://mp.weixin.qq.com/s?__biz=MzU0Nzg5MjkzNQ==&mid=2247483824&idx=1&sn=f063f536f5a61784f4d0358d20421572&chksm=fb463a18cc31b30e656ef7b3e859ad4f06fe432d219ec8df057fb5670dcd203c6a215d5c7486&token=394854727&lang=zh_CN#rd

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『名家灸選』の腰痛の灸デモ(萩原芳夫先生)Ver.1.1

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毎年春秋に開催されている現代鍼灸科学研究会は平成30年春、ゲストとして萩原芳夫先生をおよびした。萩原先生は、かつて日産玉川病院第2期鍼灸研修生で、研修後に地元埼玉県で灸専門治療院として長らくご活躍されていたが、ついに昨年閉院されるに至った。

何しろ、この治療院は、『名家灸選』に基いた灸専門院であって他に類がなかった。是非ともこの方法を学習したいという意見が当研究会内部で持ち上がり、招待する運びとなった。
まずは、鍼灸院でおそらく最も多いと思える<「腰痛」に対する名家灸選の治療>というテーマで一時間強の講義と実技を行っていただいた。

1.名家灸選と名家灸選釈義

『名家灸選』は文化2年(1805年)要するに江戸時代後期に越後守和気惟享が第1巻を著し、続いて2年後に同志の平井庸信が続2巻を編著した。日本の民間に流布されている秘法、あるいは名灸と称賛されているものの中で、実際に効果のあるものを収集・編集したものである。

なお昭和の時代に灸治療家として名を馳せた深谷伊三郎には多くの著作があるが、同氏最後の著書で最高の書とされる『名家灸選釈義』は、『名家灸選』を現代文に訳し、現代医療と照合し実際の効果を検証したものであったが、今回の萩原先生の講義は『名家灸選釈義』とは、直接的には関連がない。 

萩原先生が提示されたのは次の内容だった。


2.名家灸選にみる腰痛の治療「帯下、腰痛および脱肛を治する奇愈(試効)

現代文訳:稗(ひえ)のクキを使って、右の中指頭から手関節掌握横紋中央の掌後横紋までの長さをはかり、この寸法を尾骨頭下端から、背骨に上に移し取り、その寸法の終りの処に印をつける。またその点から同身寸1寸(手の中指を軽く折り曲げた時にできる、DIP関節とPIP関節の横紋の橈側側面の寸法)上がる処にさらに印をつける。合わせて2穴で、この2穴の左右に開くこと1寸ずつ。合わせて6穴に灸すること各7壮。

 

 

 

 

 

 

 

3.萩原先生の治療デモ

1)ヒモを使っての取穴
原著ではヒエのクキを使うが、現在では入手困難なので、ホームセンターで直径2㎜の紙ヒモを購入し、それを洗濯ノリをつけて乾燥させたものを使用した。始めて目にするものだったが、黄土色をしていることもあり、一見すると細めの線香のような外見だった。線香にしてはきわめて真直ぐで、さらに軽いこと、皮膚に触れても冷たく感じないこと、安価なので、必要に応じてハサミで簡単に切ることができるのが特徴。

ヒモ状にひねったモグサ入れ

 

椅坐位で、肘をベッドにつけ状態を前傾姿勢にする。名家灸選の記載に従って、4点灸点を取穴。取穴には細めのフェルトペンを使用。前傾姿勢にするのは、脊柱の棘突起や棘突起間を触知しやすくするためとのこと。

  

 2)艾炷をたて次々点火

紫雲膏薬をツボに薄く塗り、艾炷を6個立て、線香の火で次々に点火(同時に何ヶ所も熱くなる)。艾炷は中納豆粒(米粒大と小豆大の中間)くらい。初めて灸する者は1カ所15壮くらい、経験者は30~50壮行う。何ヶ所か灸していると、場所によっては熱さを感じにくい場所があり、このような時には、そのツボだけ余分に壮数を重ねる。
事前にモグサ(普通の透熱灸用)をコヨリ状に細く長くひねっておく。太さは、直径3㎜、4㎜、5㎜ほどの3種類で、臨機応変に太さを選ぶ。長さは20㎝ほど。1本のモグサのヒモで30個前後の艾炷をつくれる。

 

 

3)腰下肢痛を訴える患者に対しては、上記の腰仙部への灸治療にプラスして下肢症状部にも施灸したのだが、次第に下肢症状部には灸することはなくなった。


4)普通の鍼灸院にかかるつもりで、萩原鍼灸治療院にかかる患者はあまりいない。ほとんどは患者からの紹介なので、覚悟して灸治療されに来院したとのこと。まれに熱いので灸治療中止することはあるが、基本的には当方に考え通りの壮数を行うことができる。



4.現代鍼灸からみた名家灸選

いろいろな症状に対する灸治療について書かれているのは、「名家灸選」にしろ他の古典書にしろ大きな違いは見られない。ただし項目によっては、記載通りの灸治療を自分が行ってみたところ、効果あった(試効)という記載がところどころにみられる。江戸時代の灸治療を知ることができ、興味深いものであった。
とはいえ、当然ながら現代的な病態分析、治療効果に対する分析はみられない訳で、記載されている行間を読み取ることで、どうして古人はそのように考えたのか、その真理なり誤謬なりを追究する姿勢が必要となるだろう。

 

  勉強会後の恒例の懇親会

 

☆中国の柴暁明先生が、本ブログを中国語に翻訳して下さいました。我很感謝

 https://mp.weixin.qq.com/s?__biz=MzU0Nzg5MjkzNQ==&mid=2247483867&idx=1&sn=47b6902b159fea328ac501ef062020c6&chksm=fb463a73cc31b365d0c76b2d2d8eeeaaa6d58bea74228f34d603f6d928fc7b5ce3a5c75d98a4&token=394854727&lang=zh_CN#rd

 

 

 

 

 

 

 


 

本稿での後頸部の経穴位置と刺激目標

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1.序 

経穴の位置は、その古典的解釈や世界標準化などにより微妙に位置が変わることがあり、教科書もたびたび修正されてきた。その一方で施術者個人の刺激意図により、教科書とは異なった治療点を使用することも、これまた多い。
当然のことだが、学校協会編「經絡経穴学」に定めた経穴位置が今日の基準になっているので、本稿でもこれに準じているが、解剖学的観点から教科書にない治療ポイントも使っている。この新たな位置について、経穴名を別に定めた。具体的には「上天柱」「下玉枕」がこれに相当する。
種々の内容を書いていく上で、その最も基本となる経穴位置が不鮮明であると話にならない。まずは本稿での経穴の正確な位置を提示しておく。

 

2.天柱・上天柱

教科書ではC1C2椎体間の外方1.3に取っているが、何を刺激しようとしているのか治療の狙いが不明瞭である。本稿では、この天柱を使わず、教科書天柱の上1寸の部位を「上天柱」と命名し、臨床に使用している。上天柱は後頭骨-C1椎体間で、頭半棘筋→大後頭直筋と刺入できるが、大後頭直筋刺激用として用いることが多く、従って深刺になる。適応症は、後頭部鈍痛、眼精疲労などである。


3.風池
風池は、乳様突起下と瘂門(C1C2棘突起間で、左右天柱の間)を結んだ中央を取穴するというのが教科書である。これは後頭骨-C1間にとることを意味するので、上天柱と同じ高さになる。古くから風池は対側眼球に向けて刺すように指導されるが、そうすると頭板状筋→頭半棘筋→大後頭直筋刺激にな、治効は上天柱と大差ないものになる。伏臥位で、風池からベッド面に対して直刺すると、後頭三角の間隙に入る。この深部には椎骨動脈があるという解剖学的意義はあるが、治療としての意義は不明である。


4.玉枕と下玉枕
外後頭隆起の直上に「脳戸」をとり、その外方1.3寸に「玉枕」をとる。僧帽筋の停止が外後頭隆起なので、脳戸や玉枕は僧帽筋停止外縁刺激になる。また大後頭神経は、玉枕穴から浅層に出てくる。ワレーの圧痛点に一致している。
脳戸の下方で、後頭髪際から入る1寸に「風府」をとる。風府の外方1.3寸に「下玉枕」をとることにした。下玉枕は、頭半棘筋の停止部なので、臨床上刺激価値が大きい。

 

 

 

 

 

 

 

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