平成30年1月4日、現代鍼灸科学研究会の同志5名とともに、柳谷素霊先生のお墓に参拝した。柳谷素霊墓は、東京都東村山市の都立小平霊園にある。西武線の小平駅北口下車、徒歩5分で霊園の入口に到着、その後園内を5分ほど歩いて到着した。
墓石は、右から「柳谷家奥津城」と「柳谷素霊/妻正子奥津城」の二基で、正面右側に墓誌があった。奥津城(おくつき)というのは神道独特の表現で仏式でいう「‥‥之墓」といった意味である。神道では戒名がないので、墓石には生前の氏名が刻まれる。早速生花をお供えしようとすると、数日前にお供えしたと思える生花が既にあった。新年早々参拝した方がいたということだ。墓前には線香置き場がなかった。これも神道の流儀ということを後に知った。
参加者一人一人、手を合わせた。
当日午後3時30分頃に墓前に到着したのだが、墓石方向を見ることは西側に顏を向けるということになるが、冬の今頃はモロに逆光になってしまった。写真撮影には非常に苦労した。冬の間は昼頃までに参拝されるのがよいだろう。
墓石文章
墓誌に刻まれた文章は現代文なので理解しやすいものだった。
明治39年北海道函館市に生まる。藉名清助。幼少より父祖の道を習い17才にして鍼灸を得古典鍼灸医学の研究に専心昭和2年素霊塾を創設後進の育成と古典鍼灸医学の研ざんに一生を捧ぐ
昭和6年日本大学法文学部宗教科卒業 学士の称号を受く。
昭和7年アメリカ合衆国カンサス州立大学医学部に論文提出ドクターの称号を受く
昭和11年日本高等鍼灸学院を創立
昭和30年欧州各国の針灸界の招聘に應え日本最初の鍼灸医学の指導者として渡欧
昭和32年東洋鍼灸専門学校を創立
昭和34年2月20日再度渡欧を前にして病歿す 享年52才
なぜ神社には墓がないのか
仏教のお寺には墓地を併設していることも多いが、神道には墓地を併設することはない。神道はあくまで神様を信仰するためにあり、亡くなった神道信者を祀るためにはない。神道信者が亡くなると、遺体は穢(けが)れたものとして河原に放置され、自然に朽ちるのにまかせたものだった(=風葬)。一方、仏教では亡くなった者は自動的に釈迦の弟子となるとされているので、祖先を拝むことは、同時に釈迦を拝むことにつながる。
鍼灸業界で有名な江島杉山神社は福岡にある宗像大社を分祀したものであって、その辺津宮に祀られた通称弁財天(=田心姫神)を祀ったもの。杉山和一は、本所一つ目に開設した盲人の職業訓練学校の創始者としての格付けにすぎない。和一が信仰した弁財天を江ノ島から本所一つ目に分祀したことから、<銭が増えるご利益がある>として江戸の名所の一つとして賑わった。