令和4年10月30日の日曜、「三県合同鍼灸研修会」講師として招かれ、三重県津市の三重県鍼灸師会ビル内で講演をする運びとなった。講演内容に関してはは稿を改めて記すことにする。”三県”とは三重県・愛知県・岐阜県のことである。同時に講演したのは昭和大学医学部、生理学講座生体制御学部門教授の砂川正隆先生だった。その前夜、隣駅の立川駅前を夜10時45分出発、夜行高速バスに乗ること6時間半で早朝5時30分に津駅前に到着した。三重県津市は東京から遠いイメージがあったが、意外と近いことに驚きだった。
バスに乗車の際、運転手が私のチケットを調べた。それを見て「ツーですか?」と質問した。私はなぜここでなぜいきなり two と言ったのか理解できなかったので「ツーとは?」と聞き返した。運転手はこれを無視し、「似田様ですか」と質問したので「そうです」返事した。これでチェック終了。後に分かったことは、津の住民は津のことをツーと伸ばして発音する方言なのだという。
話を本題に戻す。津に出かけたのは研修会のためだが、もう一つの目的は杉山和一生誕の碑を見ることだった。この石碑は、津駅から徒歩10分の偕楽公園内にある。もとは伊勢津藩主、藤堂高猷(とうどう たかゆき)の敷地だった。藤堂は幕末から明治初期にかけ、軍や警察方面で活躍した偉人で、藤堂の死後、津の人々にこの敷地を下賜した。偕楽公園はとくに規模の大きい公園というわけではないが、起伏に富む地形を利用して山や谷を造成し、中央には池もある。春の花見時期には大賑わいをみせるという。この公園を特徴づけるのは、郷土の偉人たちの石碑が、十基ほども建っていることだろう。子供の遊具やSL展示もあり、盛りだくさんである。
津市、偕楽公園入口 。 朝の6時頃なので青く写っている
SL(D51 通称デコイチ)展示
偕楽公園内の池
杉山和一の石碑もその中の一つ。高さ50㎝で2メール四方の台座の周りに柵があり、台座中央にはさらに50㎝ほどの台座、その上に2mほどの大きな石碑があった。石碑の表には、「鍼聖杉山総検校頌徳」と刻まれ、裏目には細かな文字で本人の生涯の内容が掘られていた。
杉山和一の石碑(遠景)
杉山和一の石碑(近景)
石碑クローズアップ 「鍼聖杉山総検校頌徳」と刻まれている
石碑裏面 杉山和一の生涯を紹介
2メートル四方の台座のへりには12本の円柱状の杭があって、うち端や角の6本の杭は鉛筆の芯が飛び出ているような形をしていた。この形は両国の弥勒寺にある「針灸供養塔」と同じ意匠であり、鍼管からとびだした鍼柄を示しているものだろう。鍼管発明者にふさわしいといえる。
両国の弥勒時にあるはり供養塔。杉山和一墓に隣接している。
石碑の左奥には、高さ50㎝ほどの白く小さな石碑があって、「鍼塚」とあり、右肩には「杉山弁財天」と彫られていた。両国の杉山神社は、杉山和一が江ノ島にある宗像神社の辺津宮に願をかけだのだが、辺津宮の女神が美人であったことから弁財天として人々に人気があった。このような背景があって、杉山和一と弁財天が関係した。杉山和一は尊敬の対象ではあっても信仰の対象ではなかった。しかし「杉山弁財天」とすることで鍼聖杉山総検校頌徳に対しても人々は手を合わせる対象となることもできた。
偕楽公園には十基内外の石碑を数えたが、その中でも最も立派だったのは、職務中に殉職した警察職員を慰霊のもので、警察徽章である金色に輝く五角形星が埋めこまれていた。藤堂高猷が警察関係でも活躍していたことを示すともいえる。
杉山和一は津で生まれたことは、一般人は知らなくて当然だが、津市在住の鍼灸師でも知らない者が多い。偕楽公園に杉山和一生誕の石碑があることを知らない。知っていても特に行ってみたいとも思わないらしい。和一は津で生まれたのだが、活躍したのは江戸であった。このことが、地元民にとり杉山和一の知名度が低さに関係しているのだろう。