本患者のこれまでの経緯
4年前(85才頃)ほど前から、急に顔が正面に向けづらくなってきた。右手のしびれと脱力感も出てきたので、整形訪問。手根管症候群と腱鞘炎と診断され、手術をうけた。それにより右手症状は改善したが、顔の上げづらさは不変。顔が下を向いた状態で、正面を見ることが非常に困難。マクラをしないと仰臥位になることはできない。握力は左8㎏、右10㎏。
この患者は以前から頸痛、背痛などでたまに当院に受診していた。今回は2年ぶりの来院で、その時に顔が下を向きっぱなしになっていたので、非常に驚いた。高齢であることから、頸椎圧迫骨折による変形性頸椎症とその時は思った。
そうなると、針灸治療の方針は、頸部に加わった力学的ストレスを一時的にでも緩和し、筋疲労をとることだと考え、頸椎と上部胸椎の一行深部筋(半棘筋や多裂筋など)をゆるめ、また頭蓋骨と頸椎間の筋疲労を改善するため、後頭下筋郡や頭半棘筋をゆるめることだと考えた。側臥位で、これらの筋に刺針し10分置針した。要するに一般理学療法のような施術をした。それ以外の治療法を思いつかず、効果も不明だった。こうした治療を年に数回行った。
最近、この患者がまた来院。大学病院を受診した結果、「首下がり症」と診断されたという。担当医は「後頭部を下に引っぱる筋がはずれていている(原文まま)。骨にボルトを入れ、頭を支える手術を行う手もあるが、高齢なので心配だ。自分はこれまで7例手術した」と説明した。頸椎変形については、特に指摘されなかった。顎が胸に付いている状態”chin on chest”でありで、後頭部よりも上部頸椎の方が上にあった。
「首下がり病(=首下がり症候群)」は初耳だった。関節の問題でなく、筋の問題であるならば針灸でも治療方法があるかもしれないこと、後頭部を下に引っぱる筋は多数あるので、はずれてしまった筋があっても残存する筋の収縮力を復活させることができれば、症状が軽減するかもしれないと思った。本患者の最も強い圧痛点は、C7~Th3の2行なので、頸半棘筋のアイソトニック筋収縮状態であり、頭蓋骨を前に倒れそうになるのを、防いでいると考察した。左上天柱の圧痛は頭半棘筋停止部反応。
針灸治療
ベッドを前にして椅座位。ベッドにはマクラを置くなどして高さを調節し、額をマクラにつけ、上体を前屈姿勢にする。この姿勢で、下部頸椎~上部胸椎一行の左右6~8箇所に雀啄後5分置針。後頭骨-C1間の頭半棘筋・大後頭直筋にも同様の手技針を行った。
直後効果
顎が少し持ち上がり、前を向くことができるようになった。治療効果があったので、週一回ペースでしばらく来院することになった。緊張し過収縮している筋に対して刺針すると、筋緊張がゆるみ筋長が増すというのが普通の考え方だが、今回の等張性筋収縮状態に対しては、これを緩めると、余計に頭が垂れてしまうのではないかとも思った。筋の起始停止に刺針するのは腱紡錘に加える刺激で、筋は伸張する。これに対して筋腹に対する刺針は筋紡錘に加える刺激ということなので、筋は収縮するのではないか?
再診時(1週間後)
前回治療前によりも顎が上がっているように見えた。再度頸部の圧痛点を探ってみたが、圧痛点分布は前回と変わりなし。要するに前頸部に圧痛なし、胸鎖乳突筋を除く側頸部筋も圧痛なし。後頸部では頭半棘筋の停止部と胸鎖乳突筋の乳様突起停止部に強い圧痛あり。後頸部膀胱経(頭・頸半棘筋筋)には弱い圧痛あり。ただしC6~Th2の高さの頭・頸半棘筋には非常に強い圧痛をみとめた。他に前胸部では小胸筋部に圧痛あり。
針灸治療は前回同様に実施した。しかし施術後、今回は治療後にも顎が上がらないと訴えた。これはある程度予想していた(意図的にC6~Th2傍刺針は単刺刺激にとどめたので)。そこで椅座位でC6~Th2の高さの頭・頸半棘筋に座位で手技針を入念に実施。すると顎が上げられるようになった。治療直後は、顎-胸骨間距離は2横指以上になった
スナップ写真なので明瞭な違いは不明だが、初回治療前(左)は、顎が胸の上に接触している状態。
右写真では顎-胸骨間距離は2横指以上に開大している。
患者の希望で中背部まで凝っているという訴えがもあったので、後頭骨~Th7の高全体にわたり、棘突起外方1.5寸あたりに左右合計10本程度での入念な雀啄施術をするという方法に落ち着いている。
コメント:頸部の深層筋と表層筋について
熱海所記念病院HPによると首下がり症の病態生理を次のように説明していた。
首を支えた状態で維持する筋肉と首を持ち上げる筋肉は異なる。前者はインナーマッスル(=深層筋)で、後者はアウターマッスル(表層筋)。アウターマッスルが働くと瞬間的に頭を持ち上げることはできても、それを維持することが困難である、と。首下がり症候群は、同じ姿勢を保持できないので、前者の深層筋の障害になる。このような重力に抵抗して姿勢を維持する筋を、抗重力筋とよぶ。
頸部の姿勢保持には、頭半棘筋、頚半棘筋、多裂筋などが作用しているということだが、多列筋は腰仙骨部で発達しているが、頸背部ではあまり機能していない。頭蓋骨は前方に重心があるので下を向いてしまうのが自然だが、それを引き留めているのは半棘筋。頭蓋骨の重さを支えているのはむろん頸椎だが、頸椎の上に上手に頭蓋骨を載せて重心をとっているのが半棘筋の役割である。もし半棘筋がゆるめば、頭は下に垂れてしまう。ゆえに半棘筋は静止時の姿勢保持に関与する。
一方、頭板状筋、肩甲挙筋などは頚部を持ち上げる動作時に作用するので、姿勢には直接関係しない。後頭下筋群は、体動によって変化する頭位の変化を中枢に伝達することで姿勢変化に対応している。ゆえに後頭部下筋はめまいの治療点となり得る。
本疾患は、重力に負けた状態なので、頭半棘筋と頸半棘筋を重点的に診るとよい。抗重力筋は、本人の無意識のものとで働いている。バランスを崩しそうになると。大きくバランスがずれる前に、いち早く短時間収縮してバランスを回復する。ロケットの姿勢制御噴射のようだ。よくある運動時の筋コリに対しては、コリを緩める目的で筋の起始停止に刺針するのが普通だが、安静時のコリに対しては筋腹に対する刺針がてきしているのではないかと思った。
下図も熱海所記念病院HPの図で、首下がり症では下部胸椎棘突起間が開きすぎていることを示している。これは下部胸椎~上部胸椎を引っ張り上げる筋力すなわち頸半棘筋に障害があるということらしい。実際、今回の症例でも下部胸椎~上部胸椎の一行に強い圧痛がみられ、刺針直後から顎が上がった。
半棘筋の”半”とは背骨の上半身にあることからの命名されたという。
頭半棘筋は太く発達しており、頭の重量を支持し、これに対して後頭下筋群は、体動によって変化する頭位の変化を中枢に伝達することで姿勢変化に対応している。ということは後頭下筋への刺激は、頸性めまいに有効なことが示唆されることになる。