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Channel: AN現代針灸治療
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代田文誌先生の頌徳歌碑(飯田市龍門寺) Ver.1.2

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少し前のこと、代田文誌先生が活躍していた場所に行って見たいという考えが生まれた。そのことを代田泰彦先生に相談してみると、長野市の東京医学研究所(代田36才~)の跡地はまったく面影がないが、飯田市の寺には石碑があるとの話だった。飯田は、文誌先生が幼少期から35才まで住居を構えた土地である。

また、つい最近のこと、沢田健先生墓参後の新年会で話題になったこともあって、玉川病院後輩の寺師健先生から、飯田市の龍門寺にあるという石碑の写真が送られてきた。1999年、飯田市で日本針灸懇話会があった時、自分が撮ったのだものだという。頌徳歌碑と、この歌碑説明文の2枚で、歌碑は光線の関係からか一部判読しづらく、また説明文も錆びたり剥げたりしていて分からないところがあり、読解には苦労した。そもそも頌徳歌碑を建立した「望真会」というのも初耳だった。
 
記憶はいずれ途切れてしまうものだ。代田泰彦、寺師両先生の協力を仰ぎ、この辺の状況を記録しておくべきだろう。

なお石碑建立は、昭和56年なので、私が28才の頃で、日産玉川病院東洋医学科3年目の時にあたる。当時は代田文彦先生と毎日のように顔を合わせていたはずなのに、石碑についての話題は一切なかったのも不思議な話である。今考えると、貧乏な研修生に石碑建立のための寄付金など余計な心配をさせまいと思ったのではないだろうか。

 

 
1.代田文誌先生の頌徳歌碑
  
代田文誌先生でなければ詠めない内容になっていると思う。  

 


あなたふと 
薬師如来の
本願を 
わが身にしめて 
世を救いなむ
文誌


現代文訳(代田泰彦先生による)
ああ尊いことだな、
薬師如来の
本願を 
わが身に背負って 
世を救いたいものだな
文誌

 
2.頌徳歌碑の説明文

 


真の灯は消えず

代田文誌先生は明治三十三年豊丘村河野に生れ、学業半にして
肺結核に冒され、数度の大喀血も堅固な佛道精神と東洋医学によ
りこの難病を克服された。病中の体験から針灸医学を志されこれ
によって病者を救はむ事を念願として、七十四年の生涯を
一筋に精進された。針灸の泰斗としてその科学化に尽瘁され、多
数の著書と、その術技は、後世への不滅の功績として輝いている。
常に医道を説き、望真会を興し後進を導かれた。又島木赤彦に師
事して、歌人としても勝れていた。歌集に「火の山」がある。
この度、その償徳を敬慕する子弟、同志、後輩が相寄りここに頌
徳歌碑を建立するものである。

昭和五十六年十月十八日 大安佳日建立
 
代田文誌先生頌徳歌碑建立委員会
 

略歴
一、望真会会長            一、日本針灸師会副会長
一、日本針灸医学会会長     一、日本針灸皮電学会会長
一、長野県針灸師会会長 
  
昭和四十九年九月二十四日
 
※尽瘁(じんすい):自分の労苦を顧みることなく全力をつくすこと。
※旧字は新字に変更した。

 


3.望真会と石碑建立の経緯(代田泰彦)

望真会とは飯田市を中心として代田文誌先生を慕って集まった鍼灸師の集まりで、2-30人の鍼灸師が、研究会等行って切磋琢磨しあったらしい。この歌碑を作ったメンバーの人たちが、会員であり、推進者であったようだ。丸山薫・林一一等が中心で協力を仰ぎ、250名318万円の浄財が集まったときく。三木健次・清水千里・森秀太郎・米山博久等の名前も見える。
なお、この除幕式には代田家代表として小生が出席したことは思いで深いものがある。(兄、代田文彦は他用があり出席できなかった)

私(似田)も望真会について調べてみると、現代につながる針灸の経緯に直結していることを知った。
先の大戦で敗戦後、GHQは鍼灸治療禁止令を発効しようとしたが、これに反対したのが石川日出鶴丸で、「鍼灸医術ニ於イテ」とする論文を著した。これと同時期、「望真会」として飯田市を中心とした針灸研究交流の場が存在したが、昭和22年2月5日代田文誌は日本鍼灸医学会の再建を決意し、同年11月には、「望真会」を発展解消させ、全国規模を想定した「日本鍼灸医学会」とした。
その第1回の全国大会を飯田市松尾の竜門寺で開催された。従来の迷信的針灸と決別し、新しい科学的な針灸治療を志向したのであった。このような努力が功を奏し、GHQは針灸存続を認めたのだった。

 


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