新年の令和4年1月2日、江島杉山神社と弥勒寺の見学に出かけた。新コロナ禍の中なので、今回は一人で出かけた。両国駅から徒歩10分ほどで隅田川が見た。水上バスが宇宙船のような形だ。それを過ぎるとマンション風の鉄筋建造物があり、出入り口がお寺のような形をしている。何かと思って近づくと「春日野部屋」と書かれていた。このあたりは両国国技館も近く相撲部屋が多いのだろう。
隅田川と水上バス
春日野部屋の正門
両国駅から歩くこと10分くらいで江島杉山神社に到着。近所の方々だと思うが、次から次へと参拝に来る人が多く、気合いをいれて手を合わせている人もいた。着飾っている人もあまりないことから、日常的存在として逆に地元の方々の信仰に根付いていることが知れた。
江島杉山神社の一の鳥居
本殿。左に見えるのは杉山和一記念館
1.杉山和一の管鍼法発明のきっかけ
和一は江戸時代、伊勢の津で生まれた(三重県の津市の偕楽公園には「杉山和一生誕の碑」がある)。幼い頃失明した和一は鍼で身を立てるため、江戸に出て山瀬琢一に入門した。しかし師から経絡経穴の教えを受けても記憶することができず、師はこれを怒って追放してしまった。悲観した和一は江戸自体信仰修行の場だった江ノ島の岩屋にこもり7日間の断食修行したが満願の日になっても収穫らしきものは得られず、悲観して帰路についた。その道中、石につまずいて倒れたが、足に刺さるものがあるのに気づき、手に取ってみると、それは 筒状になった椎の葉に松葉が包まったものだった。このような筒に鍼をいれて刺入すれば痛くなくさせるのではないかと考えたのが、今日主流の「管鍼術」であった(江戸時代の鍼は太かった)。
なお上記の鍼管法発明のきっかけとなったエピソードは、今日ではよく知られているものだが、”筒状になった椎の葉に松葉が包まったもの”が刺さるということは、少々できすぎた話ではないかとの疑問が残った。杉山流三部書の序を書いた今村亮(明治十三年)によると、「岩屋で断食修行中の夢うつつの状態の時に、鍼管と鍼を授かったということである」とだけ記載がある。
和一の著として非常に有名なものに「杉山流三部書」がある。どのような内容なのか読んでみると、意外なことにすでに知っている内容ばかりだった。このことは現行の鍼灸学校教育に内容が吸収されたことを示している。改めて杉山和一の影響力が大きかったことに気づく。
2.綱吉の褒美としての本所一つ目の土地を提供
杉山和一は時の将軍徳川綱吉(生類憐みの令で有名)の難病を治療・回復させた。綱吉から何か欲しい物はないかと問われ、和一は「この世で何もほしいものはありません。それでもと言うのなら、(盲目の私は)物を見ることのできる目を、と願うばかりです」と応じた。哀れに思った綱吉は、本所一ツ目に三千坪の土地を下賜し、和一は総録屋敷(盲人の職業自治組織)と針灸按摩講習所を設立した。なおこれは世界初の盲人教育の場だった。
和一は、ついに検校の位にまで上り詰めた。検校とは、鍼灸あんまを職業とする盲人の最高位で「けんぎょう」と読ませる。将軍とその家族の治療にあたる者をいう。ちなみに座頭市とは、座頭という低い身分のあんま師で、名前が”市”という意味である。市中を杖をもち笛を吹きつつ歩き、客をとって生活していた。
和一は八十を過ぎても月一度の江ノ島の岩屋の月参りを欠かさなかった。これでは身体がもたないと思った綱吉は、この敷地内に岩屋風の洞窟を造成し、江ノ島弁財天の御分霊をお祀りすることにした。これはすぐに「本所一ツ目弁天社」と呼ばれ名所になり、江戸庶民の信仰を集めた。和一が没したのは、八十五才の年だった。
3.江ノ島にある宗像(むなかた)神社
宗像神社とは海難事故の安全祈願の神様で、海辺にあるのが特徴。本家は宗像大社といい、福岡県にある。その支社は宗像神社で全国に数カ所あって江ノ島(江島ともよぶ)もその一つ。宗像神社は、3つで一組になっており、辺津宮(へつぐう)・中津宮(なかつぐう)・沖津宮(おきつぐう)とよぶ。津には”何々の”といった意味がある。三つの神社には辺津宮=田心姫神(たごりひめのかみ)、中津宮=湍津姫神(たぎつひめのかみ)、沖津宮=市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)が祀られている。
辺津宮の女神は美人であることも知られ、弁財天(通称弁天様)ともよばれる。弁財天は<水の神>そして<銭の神>とされている。水の神なので、境内にある池を渡ってお参りする。またそれを守るのは、狛犬ならぬ白蛇と決められている。
池には滝に見立てた水流れが注ぎ、その傍らには琵琶を弾区弁財天の石像がある。
辺津宮、中津宮、沖津宮だが、辺津宮は最も規模が大きく交通の便もよい。しかし沖津宮は小さく行き着くのが難しい。宗像大社の沖津宮は福岡県の北、玄界灘中央の小島にあり、中津宮からは海を隔てて沖津宮を眺めることができる。沖津宮は、現代にあっても女人禁制どころか一般人も立ち入りできない。神職のみ上陸時には海中での禊を行い、神事を司るが一木一草一石たりとも持ち出すことができない。神職は一ヶ月毎に交代で勤める。
江ノ宮の沖津宮は元は岩屋にあったというが、1年の半分は洞窟が海水に満ちて入れなくなるので、現在は島の高い処に移されているた。
琵琶を弾く弁財天。手前にあるのが銭洗い場
4.岩屋の中はどうなっているか
池にかかった小さな太鼓橋を渡ると、すぐに岩屋入口になる。内部に蛍光灯は光っているが少々薄暗い。5mほど歩くと杉山和一像があり、そこがT字路の分岐。右手すぐには
宗像三姉妹の女神を祀っているが暗くてよく見えない。左に曲がって3mほど行くと
大きな蛇像があり、その周りを陶器の小さく可愛い白蛇が何十体ととぐろを巻いていた。
杉山和一像
宗像三姉妹の像?
白蛇の石像
5.その他境内にあったもの
江島杉神社は、誕生した経緯が複雑なので、祀っている内容も、多彩で興味はつきない。
①本殿、②杉山和一のレリーフと点字の説明文、④力石(力自慢大会用)、⑤杉多稲荷神社の鳥居と石碑。綱吉が和一に贈った土地は、元は杉多神社だったというが、杉多神社は隅に追いやられた形になっている。
本殿左には近年、杉山和一記念館が設立された。1Fは杉山和一の資料館、2Fは杉山按治療所になっている。ただ正月中は休館ということで見学できず残念だった。
和一のレリーフと点字の説明文
杉多稲荷
6.2019年に発見された杉山和一の木像
2019年、和一木造座像が江島神社で見つかった。木像の存在は知られていたが、注目されてこなかった。このたびの調査で和一自らが作らせた唯一の像と判明した。木像は高さ約50cm。頭巾がないこともあって、これまでの和一像と比べて年は若く写実的で、等身大の人間として彫られている。
7.杉山和一の墓
杉山神社は「神社」であり、神を祀るところなので境内に墓はない。といよりも杉山和一は85歳で没したが、その当時そこは江島神社であって杉山神社ではなかった。明治二十年頃になって杉山和一の霊牌所が再興し、江島神社境内に杉山神社が誕生。昭和27年に合祀し江島杉山神社となった。
杉山和一の墓は、江ノ島にあるが、徒歩15分ほど離れた弥勒寺にもあるので、当日は弥勒寺も参拝した。外見はごく普通のお寺で、正月だというのに参拝する人は見あたらない。正門を入って、右側は墓地となっている。すぐ左側にはお目当ての「杉山和一の墓」と「はり供養塔」が並んでいた。両者とも質素なものだった。和一の墓前には、なぜかセイリンディスポ針のカラの包装が落ちていた。鍼灸学生が和一に見守られながら、この場所で刺針練習したとでもいうことだろうか?
はりというと、普通は裁縫用の針の供養のことをさすが、こちら鍼治療用としての鍼である。石碑の上から鍼柄がとび出ているかのような趣向ということは、縦長の石碑は鍼管を表現しているものではないか! 実によく考えられている。この石碑が鍼管法の創始者、杉山和一の墓にあることは憎いばかりの演出である。
弥勒寺
現在の杉山和一の墓。(あまり特徴がない。墓誌は江戸時代のものか?)
江戸時代の和一の墓。この形は、江の島にある和一の墓石と同じタイプのようにみえる。
はり供養塔
昭和53年、東京都鍼灸按マッサージ指圧師会、社団法人東京都鍼灸師会など関連六団体により建立された。
9.回向院(追加分)
江島杉山神社と弥勒寺に行った道すがら、回向院にも立ち寄った。回向とは死者を供養するという意味がある。江戸時代に明暦の大火により10万人以上の人命が奪われた。回向院は、将軍家綱は、このような亡骸を弔うべく、万人塚という墳墓を設けた。これが無縁寺・回向院の始まり。交通の便が良い地だったので、江戸中期からは全国の有名寺社の秘仏秘像の開帳される寺院として、参詣する人々で賑わった。境内はさまざまなものが祀られているので、逆に宗教色はあまりない。昔から庶民のたまり場といった感覚で、庶民とともに歩んできた寺院ある。すぐ隣地には江戸時代に土俵が置かれていた場所というのが残っていて、回向院でも勧進相撲が行われていた。力塚と刻まれた大きな石碑が残っている。
一番人気は、大泥棒「鼠小僧次郎吉」の墓で、手を合わせる人が尽きることはない。やばい事をしても捕まることがないとされ、墓石を刻んで持ち去る者が非常に多かった。そこでお寺の対策であるが、”お持ち帰り用”として墓石の前に白い塩の塊ようなものが置いてある。これは勝手に削っても叱られることはない。
神社内には、水子塚もあって、多数のかざぐるまで囲まれている。このかざぐるま幼くして亡くなった子供を慰めるためにある。青森県の恐山にあるかざぐるまは、北風にビュービューと吹かれているのに対し、回向院のかざぐるまは、暖かいそよ風にゆっくりとクルクルと回っている感じで暖かい。