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肩関節の結帯動作制限に対する針灸治療  ver.2.1

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肩関節の結帯動作制限に対する針灸治療のブログは、2021.6.15に発表済だが、内容が古くなったので書き改めることにした。

 

1.結帯動作制限と障害筋
   
エプロンやブラジャーをする動作または排便後にお尻を拭くという動作を結帯動作という。これは上腕骨の伸展+内旋+外転の複合動作で、これに肩甲骨の下方回旋を伴う。結帯制限は、凍結肩など関節の障害でも起こりうるが、本稿では筋の問題として考えることにした。したがって診断名は肩腱板炎となる。この運動で、とくに内旋制限は結帯動作制限に直結するが、伸展と外転の動作は、前腕を背中側にもっていく過程の動作であり、伸展と外転の動作は、前腕を背中側にもっていく過程の動作であり、必ずしも可動域制限があるわけではない。

結帯動作の語呂:マワシ(結帯)が伸(伸展)びて、不甲斐(外転)ない(内旋)
            お相撲さんのマワシがのびて、格好悪いさま。

 

2.棘下筋

1)棘下筋の過収縮    

結帯動作(肩関節の伸展+外転+内旋)制限では、内旋筋である大円筋と肩甲下筋の筋力が弱くて生じているのではなく、拮抗筋である外旋筋(=棘下筋と小円筋)が過収縮状態にあって、これが伸張を強いられて痛みと可動域制限を生じている状態である。

2)天宗運動針 

 肩の内旋動作では、棘下筋が伸張を強いられる。したがって過緊張状態にある棘下筋を刺激して伸張させることを治療目標とする。次の2方法がある。
①座位で天宗刺針したまま上腕骨を内旋運動させる。
②患側上のシムズ肢位で、患側手掌をベッドにぴたりとつけ、肘を90°屈曲位で天宗圧痛点に刺入したまま、肘の円運動させるとよい。棘下筋に響きを与
えることができる。激量を患者自身で決めることができるメリットがある。我慢できる痛みの範囲内で10回~30回、回すよう指示する。

最新の知見では、結帯動作で母指が体幹を越える処までは、棘下筋下部線維が収縮し、母指が背中を上行する処からは棘下筋上部線維(=肩甲棘の直下)が収縮するとされる。これは天宗の圧痛位置も変化するという。症状の重い結帯動作障害では肩甲骨の下方を刺激し、症状が軽ければ肩甲骨棘窩窩の上方を刺激することがよいのだろう。教科書的に天宗を取穴するのではなく、反応点を探して刺激することが重要だろう。

   

天宗(小):肩甲棘中央と肩甲骨下角を結んで三等分し、上から 1/3の処。棘下筋中。肩甲上神経(純運動性)刺激。
 
3)棘下筋のTPの放散痛

棘下筋のTPが活性化すると上腕外側に痛みが出ることがある。逆に上腕外側痛を訴えるケースでは、天宗刺針で症状の再現痛が生じ、治療効果も良好である場合が多い。天宗から刺入して上腕外側に響かせるには、肩甲骨骨膜に十回ほどノックするような刺針刺激を行うとよい。患者は症状のある上腕外部を触ることはできるが、棘下筋を触れないので、患者自身は肩の前方が痛むと訴えることになる。

※近年の知見では、結帯動作で母指が体幹を越えるまでは、棘下筋下部線維が収縮し、母指が背中を上行する処からは棘下筋上部線維(=肩甲棘の直下)が収縮するという。これは天宗の圧痛位置も変化することに他ならない。症状の重い結帯動作障害では肩甲骨の下方を刺激し、症状が軽ければ肩甲骨棘窩窩の上方を刺激することがよいだろう。

 

かつて中国では、上腕外側痛に対して肩髃から曲池に向けて水平刺を行っていた。これはおそらく上腕皮神経痛を治療しているのだろうが、治療効果は持続しないことが多かった。

  

 

4.小円筋
起始→肩甲骨の後面外側縁上部の1/2 停止→上腕骨大結節陵   神経→腋窩神経運動支配
腋窩神経の筋支配語呂:賞(小)賛(三)の駅(腋窩)か。小円筋、三角筋は腋窩神経支配

1)小円筋の過収縮  

結帯動作は、伸展+内旋+外転の複合動作である。このうち内旋に働くのは大円筋だが、大円筋の筋力低下による内旋制限は臨床上きわめてマレで、内旋障害は小円筋の過収縮によることがほとんどである。治療は小円筋の緊張を緩めることが目標になる。小円筋が過収縮すると、外旋制限が生じる。これを無理に伸張しようとすると結帯制限が生ずる。

2)臑兪運動針
 
結帯動作肢位にして、臑兪から小円筋に刺入。肘を体幹前方に動かし、小円筋をストレッチする。臑兪への刺針は単に坐位や伏臥位で刺入するとスカスカするのみで筋に当たったとの手応えがない。

座位で両手を腰にあてる。その際、母指は背中に向ける。肘を手前に動かす。この動きは肩関節内旋動作になる。この時小円筋は伸張されている。この肢位で臑兪から小円筋に刺入。肘を体幹前方に動かし、小円筋をストレッチする。

臑兪(小): 腋窩横紋後端の上方、肩甲棘外端の下際陥凹部で小円筋中。臑兪は側臥位にて肩甲骨外縁を刺入点とし、骨にぶつけるよう刺入する。  
    腋窩神経の筋支配語呂:賞(小)賛(三)の駅(腋窩)か。小円筋、三角筋は腋窩神経支配 
 

※肩貞と臑兪の位置についての私見
学校協会教科書では、肩貞は腋窩横紋の後端から上1寸にとり、臑兪は肩甲棘外端の下際陥凹部にとる。しかし本稿では肩貞を腋窩横紋の下で大円筋上にとり、臑兪を腋窩横紋下で小円筋上にとっている。その方が臑兪は結帯動作の治療穴に、後述する肩貞は結髪髪動作の治療穴として理解しやすいため。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


太極療法配穴の個人差(代田文誌著「鍼灸読本」より)ver.2.5

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 数年前私は代田文誌著「十四経図解 鍼灸読本」春陽堂刊を入手した。初版は昭和15年で、昭和50年代に再版された。今日ではそれも絶版となった。

 集団的に施灸を初めたのは、昭和八年五月第二次自衛移民(500名)が満州に渡る時で、さらに昭和13年の茨城郡内原村にある満蒙開拓青少年義勇軍訓練所の開所から昭和20年まで、保険灸を施していた。義勇軍は満州に渡って後も引き続き保険灸をやることになっていた。富国強兵を国是としていた時代のこと、高価な医薬品を必要としないお灸で健康増進に役立てるなら、ということで国が保険灸普及の後押しをした。

その折、団員向けの小冊子を製作しようとのことで、昭和15年春陽堂から「鍼灸読本」を出版した。基礎的な内容なので本稿で特記すべき点はあまりないが、健康灸について興味深い内容を発見した。「健康灸」そして「保険灸」は外部向けの名称であり、事実上は太極治療そのものだ(澤田流とはいえないだろうが)。

いずれにせよ、戦争に負けて以後、この構想は頓挫し、戦後まもなく訓練所の建物も解体された。


1.3パターンの保険灸

茨城県内原村、義勇軍訓練所において、保険灸として以下の三種の規則をつくって灸をした。
下記経穴に、半米粒大灸5壮づつ実施。

1)健康「上」と認める者に、身柱・風門・大椎・曲池・足三里
2)健康「中」と認める者に、身柱・風門・大椎・四華・中脘・曲池・足三里
3)健康「下」と認める者に、身柱、風門、大椎・四華・肝兪・脾兪・腎兪・関元・天枢・曲池・足三里
 
註)四華:
四花ともいう。ヒモを首にかけ、鳩尾のところで両端を切る。このヒモの中央を喉頭隆起にかけ、その両端を背部にまわし、脊柱上でその先端に仮点(ア点)をつける。次に口を閉じて左右の口角の間を測り、脊柱上のア点にその中央部をあてて、その左右にイ、ウの2点、上下にエ、オの2点、計4点に施灸する。(本間祥白著「図解実用経穴学」より)膈兪と霊台および八椎下(筋縮と至陽の間でTh7棘突起下)の計四穴になる。潮熱・盗汗(肺結核時のような)、虚弱体質時に灸療する。

 

 

2.取穴理由

1)誰でも17~18才となると風門に灸した。これは風邪を予防し、同時に心臓の機能を整える目的。風邪は万病の始めであると古人は恐れていた。また同時に膏肓も併せて灸する。その意味はおそらく結核の予防と全身の活力を強めるためであったと思える。

2)24~25才ともなれば三陰交を加える。これは花柳病(=性病)の予防と生殖器を健康にならしめ婦人にあっては月経を整える爲であろう。

3)30~40才頃になると、足三里にすえる。これは胃を健康にし老衰を防ぎ、一切の疾病と予防し、その上長命を保つ方法とした。、
なお老いて視力の減弱を防ぐために足三里、併せて曲池へ施灸することもあった。

  

3.沢田流太極療法との相違点

「鍼灸読本」を出版したのは代田文誌40才の時だった。この年には「鍼灸治療基礎学」も出版し、翌年には「鍼灸真髄」も出版している。師匠の沢田健は文誌が38才の時に死去している。

「鍼灸治療基礎学」や「鍼灸真髄」は、沢田健の治療すなわち沢田流太極療法を大いに褒め讃えている。「鍼灸読本」にみる保険灸の取穴理論は、「三原気論」理論や五臓色体表を用いていないという点で本式の沢田流太極療法とは異なるが、沢田流基本穴に似た面があり、かつ一般人にとって考え方が分かりやすいものとなっている。


沢田流太極療法の説明

 http://blog.goo.ne.jp/ango-shinkyu/e/90e2d4cb08485c0c8c12a8780dd7d6e6


※沢田流基本穴:百会穴、身柱穴、肝兪穴、脾兪穴、腎兪穴、次髎穴、澤田流京門(志室穴)、中脘穴、気海穴、曲池穴、左陽池、足三里穴、澤田流太谿(照海穴)、風池穴、天枢穴など。(時代により多少変化あり)

 

4.田中恭平氏の「健康長寿の灸」 と神田勝重氏の「保険灸」

内原村義勇軍訓練所で、代田文誌の同僚として次の2名の鍼灸師が、保険灸の配穴について記している。文誌を含めて計3名が同じテーマで記載しているが、それぞれ微妙に内容が異なっているのが興味深い。


1)田中恭平の「健康長寿の灸」
2018年6月22日、匿名氏から田中恭平『灸の医学的効果』309頁「健康長寿の灸」の内容紹介コメントを頂戴した。田中氏は、内原の満蒙開拓義勇軍の内原訓練所衛生課内の鍼灸部で代田文誌と一緒に働いていた。

① 身柱、風門、足三里の五点 ‥‥健康上の者
② 身柱、四華、三里の七点‥‥‥ 健康中の者
③ ②に腹部基本灸四点と左右の曲池を加へた十三点 ‥‥健康下の者 
④ ①に膈兪、肝兪、脾兪、腎兪、腹部基本灸の十二点を加へた都合十七点‥‥健康下の者 

(「腹部の基本灸といふのは、私・田中恭平自身で決めた基本灸でありますから、書物には基本灸などと云ふ文句はありません。腹部基本灸の穴は中脘、天枢、関元。)

2)神田勝重氏の「保健灸」
上述の匿名氏は、神田勝重『灸療要訣』(日本書房)115頁「保健灸」についての内容も紹介してくれている。神田氏は序文で、『灸療要訣』の内容の大部分は、私の師 代田文誌先生が後日『鍼灸治療要訣』として刊行される草稿の中より必要と思はれるものを寫させて頂いたものである」と記している。

①健康上と認めるもの‥‥身柱、風門、霊台、曲池、足三里
②健康中と認めるもの‥‥身柱、風門、四華、中脘、曲池、足三里
③健康下と認めるもの‥‥身柱、風門、四華、中脘、気海、腎兪、脾兪、次髎、左陽池、足三里、太谿


3)3者の比較

①健康度「上」

 

万病の元とされる<風邪>の予防のためだろう。上背部の灸を重視しているように見える。

②健康度「中」

 健康度「上」の風邪の予防に加え、肺結核の予防のためか、横隔膜あたりの刺激を重視しているようにみえる。

 

③健康度「下」

健康度「中」の肺結核予防に加えて、脾兪・腎兪など消化吸収力を高めることで、食物が人体に取り込むことで栄養になることを期待しているかのようだ。
興味深いのは、神田勝重氏の左陽池の灸である。左陽池は沢田流太極治療の伝統的治療穴の一つとして、沢田健先生は非常に重視していたのだが、代田文誌先生は、後に合理性に乏しいとして選穴しなくなった。陽池は三焦経の原穴であるが、沢田先生の独特の考え方として、三焦を重要視していた。その理由として三焦は生体における化学反応を連続的に起こす条件としての体温を一定に保つ内部環境があげられるという。陽池の左側を取穴するのは、人身の右を陰とし、左を陽とするという素問霊枢の説からきている。陽池は陽の池だから左をとるのが原則である。もちろん右の陽池を使っていけないというのではない。

沢田先生はほとんど書物を残さなかった方ではあるが三谷公器著「解体発蒙」を紹介する際の序文として、<三焦概論>という一文を残している。上焦を宗気、中焦を営気、下焦を衛気と関連づけて考察している内容となっている。


三谷公器著「解体発蒙」の三焦についての説明

https://blog.goo.ne.jp/ango-shinkyu/e/159cb2af0776c4083e2998a343973b28

 


5.集団施灸の効果

昭和50年4月15日。日鍼灸誌に堀越清三氏により「集団施灸の一例」として当時の将兵約800名に対する集団施灸(1週間~3ヶ月間)のデータを報告している。当時は軍機密として公表されなかった。安価で手軽にできる施灸治療の秘密を、敵国に知られるのを国家が嫌がったと思うと面白い。

原著論文

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsam1955/24/2/24_2_22/_pdf/-char/ja

一般兵、錬成兵、将校と下士官のグループ別で、それぞれその半数に施灸を行い、残り半数を施灸を行わない対照群とした。施灸前後に種々の体力測定を行い、施灸の効果の有無

を検討している。2回分析を行っていて、その結果は少々異なるが、おおむね次のようなった。(2回分析中、ともに有効なものを<有効>とし、1回のみ有効なものを<やや有効>と、2回ともに効果なかったものを<いまだ効果を見ざるもの>と分類してみた。

<有効と思われるもの>
体重増加、100m疾走の短縮、食欲増進、脚力、夜間排尿回数の減少

<やや有効>
睡眠、1000m疾走、懸垂、負担早駆、

<いまだ効果を見ざるもの>
患者発生状況
 

6.5人で協議してきめた保険灸の部位

奥野繁生からメールを頂戴した。保険灸の取穴について、当時の鍼灸師スタッフ5名が協議して「保険灸」の治療ポイントについて検討した結果が記されている文献を発見したとのこと。以下、奥野先生のメール内容。


『東邦医学』誌第6巻第7号(昭和14年6月、復刻版第四輯所収)を眺めていたら、代田文誌「鍼灸余話」という記事があり、そこに「青少年義勇軍の灸療」として、こう記されていました。

「茨城県内原の満蒙開拓青少年義勇軍に於て保健のためにその全員に灸をしてゐることに就ては前にも記したことがあるが、本年(昭和十四年)四月二日に、内原の青少年義勇軍訓練所に於て、同所長加藤完治先生を中心として、帝大医科の茂在教授、日大医科の齋藤教授と田中恭平氏と私との五人で協議した結果、左の様な灸を一般に行ふことに決定した。そのことを、茲に併せ記して大方の参考にしたいと思ふ。

一、健康甲と認める者に。身柱、風門、大椎、曲池、足三里。
二、健康乙と認める者に。身柱、風門、大椎、曲池、足三里、中脘
三、健康丙と認める者に。身柱、風門、大椎、曲池、足三里、中脘、関元、四華。

以上は、内原義勇軍訓練所の衛生部に於ける医師との協定の上にて一般的に施す灸治である。以上の灸点を選んだ理由については煩雑であるから今は記さぬが、これだけの灸にて青少年達の健康を維持し、その体格を向上せしめ、併せて結核其他の病気の予防に役立つであらうことは、確信して疑はぬ処である」

五人で協議した結果、だったのですね。(引用以上まで)

 

上記取穴を図示してみると以下のようになった。

 

先に挙げた3名の健康灸パターンに似てはいるが、微妙に異なっているものとなった。まあこれが正解という筋合いのものではないが‥‥
健康度「甲」と健康度「乙」とでは、中脘穴を加えるか否かという点のみが異なる。健康度「甲」健康度「乙」ともに上背部刺激は重視しているが、中背部や腰部を取穴していないのが特徴的である。

 

 

上天柱刺針と下玉枕刺針のねらい目の違い

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筆者は以前から上天柱刺針と下玉枕刺針の違いに注目していた。この度、筆者の推測を裏付ける症例を体験したので報告する。

1.上天柱

後頭骨の後下方の下項線には後頭下筋の一つである大後頭直筋の骨付着部がある。大後頭直筋へ刺針するには、C1-C2後正中から外方1.3寸に天柱穴をとり、その上方約1寸でC1-後頭骨間に上天柱(奇穴)から深刺する。上天柱から深刺直刺すると、僧帽筋→頭半棘筋→大後頭直筋と入ってゆく。大後頭直筋は、頭蓋骨-C1の屈曲伸展に関与し、頸椎に対する頭蓋骨のブレ防止の機能をもつ。したがって本筋の緊張では動揺性めまいや眼精疲労を生ずることがある。
 
なお天柱穴から直刺深刺する意味は分からなかった。これは天柱が無意味といのではなく、どこに天柱を取穴するかという解釈の違いによるものだろう。


 

2.下玉枕
 
後頭骨の後下部で下項線の上1~2寸上方には上項線があり、頭半棘筋が停止する。上項線から上には、筋はなく帽状腱膜となっている。上項線の直下には下玉枕取穴する。頭半棘筋は、Th3棘突起を起始として後頭骨上項点に停止する強大な筋で、下に向いてしまう顔面を引っぱり上げる役割があり、また頭蓋骨の重量を支持する役割もある。
下玉枕から直刺すると薄い頭半棘筋停止部に入り、その下に筋はなく骨があるのみ。したがって下天柱は深刺はできず、右玉枕からの刺針は、左玉枕方向に斜刺することになる。

 

3.顎関節症Ⅲb型と後頸緊張症状の症例報告(42才、男性)

5年ほど前から辛くてどうしようもなくなると当院に来院するようになった。現在、年に数回来院する。主訴はいつも同じで、左顎関節の動きが悪く後頸部痛があること。開口すると、左顎関節が詰まり、滑らかに動かないという。開口時のクリック音なし。左顎関節症Ⅲb型と判定した。
顎関節円板の慢性的な脱臼に対する針灸治療は、下関から聴宮方向に斜刺深刺し、外側翼突筋上頭の顎関節円板に付着するあたりを狙うのが私の治療パターンになる。寸6#2で実施すると反応が弱かったので2寸#8の針で刺し直した。10秒ほど置針すると、ちょうど悪い処に響いているとの訴えがえられた。5分間置針して抜針。
※下関から直刺深刺すると外側翼筋下頭刺激になり、Ⅰ型顎関節症による開口制限によく効く。

すると今度後頸部の頸板状筋あたりがつらいというので、下風池(C2棘突起下外方1.3寸)から直刺。ちなみに頭板状筋は、C1C2間の回旋機能を担当している。
その直後から、後頭下部がつらく感じると訴えた。そこで座位にして私の常套法である上天柱部深刺を行った。たいていの患者は、この治療で満足するのだが、本患者は面白いことに「そこが頸筋の最上部ですか?」と言った。私は「さらに上方にも筋があるから、そこに刺針しますか?」との質問に、「やってみて下さい」ということで、下玉枕から頭半棘筋停止に向けて刺入、直刺すると骨にぶつかるので、対側の下玉枕へと斜刺した。10秒ほど置針していると、「頸が次第にゆるんでいるのが分かる」と言った。結局この患者は、この針で満足したようだった。


4.症例を通じて学んだこと

以前から顎関節と頸椎には密接な関係があることを、整体やカイロプラクティック分野で指摘されてはいたが、内容が宣伝に偏り、エビデンスも不十分なので距離をおいていた。ただ本症例の治療を経験してみて、両者間に関連性のあることが理解できた。その理論的背景には次のものを発見した。

1)開口すると、C2に対してC1が前方に辷るとされ、顎関節症で円滑に開口できない場合、C1C2間の歪みは大きくなる。すなわち顎関節症は上部頸椎アラインメントを乱す方向に働くようだ。


2)頸椎と頭蓋骨の接合部を支点とすると、頭蓋骨の重心はやや前方にあるので、この状態では顔が下に垂れてしまう。後頭骨を下方に引っぱる筋があることで頭蓋骨の重量バランスが保たれる。  後頭骨を下方に引っぱる筋とは、後頭下筋および頭半棘筋である。上天柱は大後頭直筋の起始であり、下玉枕は頭半棘筋の起始である。

 

代田文彦先生の言葉  

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代田文彦先生は鍼灸師の心を、よく理解する希有な内科医だった。鍼灸師や鍼灸界特有の欠点があることも熟知していた。病院にいる鍼灸師には、苦笑いしつつ、時には辛辣な発言もしたが、鍼灸師の心情や立場をよく理解した上での発言で、またマトをついた指摘だったので、どの鍼灸師も反論できなかった。


1.「まず、足元を固めよ」
鍼灸師になると、すぐに将来の夢を語りたがる。そうした話よりも重要なのは、現在の立場や生活を確保することが先決だと語った。玉川病院流の鍼灸を統一しようという話もあったが、そんな暇があったら各人が自分の技量を磨いたほうがいい、と取り合わなかった。


2.「人に頼るな」
人に仕事を頼むと、がっかりした結果になることがある。全部自分でやるつもりで行うことが大事だ。 


3.「机の中身を見ると、頭の中身が分かる」
ともに整理整頓が大事だということ


4.「本田先生(私の尊敬している医師)の力が100点だとすれば、××先生(私が個人的に嫌いな医師)の力も98点はある。医師の力に大きな差はない」
代田先生の前で、私が本田先生のことを、あまり褒めるので、私をたしなめたのだろうが、真意は必ずしも明らかでない。 


5.「ある鍼灸師だが、20年間勉強を続け、医師なみの力をもった人がいる」と代田先生は語った。それを聴き、一人の針灸研修生は、少々驚き、「そんなに時間がかかるものですか?」と問い直した。代田先生は「そんなもんだ」と返答した。


6.「今(30年前)は、鍼灸師にとって、一番よい時代だろう」
   「医師にできないレベルの針灸をせよ」
 30年前の話。10年後に、鍼灸師は食えなくなる時代が来るかもしれない。医師 が鍼灸をやり出す。その対策としては、医師にできないレベルの鍼灸をすることだ。


7.「針灸は、何と頼りない医療だろう、と思う時がある」
   「針灸の守備範囲を心がけよ」
   「針灸治療が効くのは、五十肩以外は、みんな自律神経失調症だ」
 「 鍼灸をして、鎮痛剤の薬が1日3回から2回に減ったとしても、手間や費用を考えると、割に合わないでのはないか?と質問すると、「それでも鍼灸の効果はあった」と判断するのでいいことだと返答した。


8.玉川鍼灸研修生の一人(M.K氏)が、代田先生に向かって「患者に鍼灸治療をすると、邪気をもらってしまうので、非常に疲れる」と話したことがあった。先生は「それこそ気のせいだ。治療に集中するから疲れるだけだ」と返事をした。代田先生は「気」を認めていなかった。 


9.「鍼灸師は、いつまでたっても親父(代田文誌先生)の本を金科玉条にしている。よほど頭が固いんだな」と言った。


10.代田先生は、外来診療とは別に、常時20名前後の入院患者を担当していた(ちなみに常勤医師の平均入院担当は10人程度)。その入院患者は、鍼灸研修生ごとに2~4人程度が割り当てられ、助手として診ることができ、必要ならば鍼灸治療も行った。
週1回は入院患者のカンファレンスを行った。鍼灸師が担当患者ごとに現状や問題点を説明したが、その際カルテを見ながらの説明は許さなかった。代田先生には「担当した患者であれば、重要点は記憶していて当然だ」との信条があったからだ。鍼灸師の頭の中には、自分が担当した数名の入院患者のデータ(それも不確かな)しかないのに、担当入院患者20名のデータは、すべて代田先生の頭の中にあるようだった。今想い起こしてもても驚異である。


11.間中喜雄先生も針灸が大好きだが、鍼灸そのものが好きなのだ。そういう点で彼は天才だ。しかし病気を治す目的で、より良い鍼灸臨床を目指そうと考えている我々とは方向性が違う。

12.有効性の統計学的な検定は、臨床家にとって、あまり意味がない。効いたか効かなかったかは、実感としてすぐに認識できる。


13.玉川病院当時の代田先文彦生は、東洋医学もできる内科医としてユニークな地位を築いていた。私が玉川に入って1年目頃には、自ら週2回の半日、針灸外来を担当していた。しかしその翌年から針灸をしなくなった(針灸は週2回女子医大耳鼻科に出向して行っていた)。
私は玉川研修生5期生だったが、玉川6期生以降の者は、おそらく代田文彦先生が実際に患者に針灸する姿を見ていないのではないだろうか。玉川で代田先生が針灸をやらなくなった理由は、内科医として多忙になり過ぎたせいであったが、本当かどうか、もう一つ理由を、先生独特の苦笑いしながら教えてくれた。自分が針灸をすれば、針灸を希望する患者が全員、自分の処へ来るので、針灸師の仕事がなくなってしまうということだった。

そして代田先生はこういった。「自分も本当は針灸したい。玉川の針灸師がうらやましい」


14.代田文彦先生が、医者になりたての頃、片手挿管法の練習をしていると、文誌先生がこう言った。「お前は医者なのだから、片手挿管法など練習しなくてよい」
以来、片手挿管法の練習は中止し、文彦先生の刺針は、常に両手挿管法によるものだった。
それから二十年経った頃、代田文誌先生の治療風景を収めた8ミリフィルムを観る機会があった。文誌先生も、両手挿管法で刺針していたのであった。

 

 15.代田文彦先生は、大学時代に空手部に所属していたのだが、大学2年時から6年時まで計5年間、主将を務めていた。対外試合の際、相手の打撃を受けても、全然効いていないような平然とした顔をして審判を欺き、相手にポイントを与えなかったという。あとで確認してみると肋骨にヒビが入っていたとか。

 

16.代田先生は、大学時代にきちんと先生についてフルートを習っていた。年に一度の玉川病院のクリスマスパーティーの演目として玉川交響楽団と称して、楽器を演奏できるドクター数名と「聖よしこの夜」を演奏したのだが、まともに演奏できたのは代田先生ただ一人だった。先生の上前歯には隙間があり、フルートを吹く時に息が漏れるということで、歯と歯の間にはさむ金でできた金型をはめ、演奏に臨んだのだった。フルートのケースには、金型も入っていた。

 

17.年に2回、玉川の東洋医学科では宴会を開いた。午後6時から開催という場合、それに間に合うように会場に来ていたのが文彦先生だった。人一倍多忙なはずなのに、これは驚きだった。他の針灸師メンバーは、いろいろな理由をつけて遅れるのが常であった。本当に忙しいひとほど時間を守ることを知った。そうしないと後の日程も狂うことになる。

 

へバーデン結節の治療

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1.病態
 
1)手指のDIP関節にみる変形性関節症。DIP関節基底部背側中央の伸筋腱付着部を挟んで、2つのコブ(結節性隆起)があるように見える。これは関節の炎症により関節包がゆるみ、摩耗した骨が周囲に骨棘を増生させて骨性の膨隆が生じる結果である。屈曲方向に曲がりはじめる。

 


2)ヘバーデン結節の症状は主に運動時痛だが、初期にはDIP関節が左右対称性に赤く腫脹し、自発痛を伴うことがある。 一方、3ヶ月が経過し、ある程度変形が進んで関節の動きが悪くなると、痛みがなくなる者が多いとされる。しかしいつまでも痛みが去らない者もおり、通院しても痛み止めや湿布を処方するばかりで、医者は頼りにならず、針灸で何とかならないかと来院する。

 

2.腱付着部症としてのヘバーデン結節

ヘバーデン結節部の圧痛点を探ると、DIP関節の2つのコブの間にあることが最も多く、他に左右側面に、そして時にはDIP関節掌側面中央にみることもある。時計の文字盤でいうと12時、3時、6時、9時以外の圧痛点は、あまりない。すなわち圧痛点は、いずれも腱や靱帯部分になる。

2つのコブの意味は、背側側腱付着部組織は隆起し、腱の骨付着部症がある。これは腱付着部  に微細な損傷をうけ、その修復機転としての軟骨化生、瘢痕性肥厚、石灰沈着、骨棘形成などが  発生している状態だとされるが、コブそのものに圧痛はないことが興味深い。痛みの正体は、変形に由来する関節包からくるのではなく、腱付着部症なのではないかとのの見方もできる。(辻田祐二良ほか:いわゆる「指曲がり症」(ヘバーデン結節)発症メカニズム、産業医学、1988)

腱付着部痛は次の機序で進展する。
指のDIP関節の変形
→関節包痛および関節変形にともなう腱痛(指背側にある指伸筋腱、指腹側にある浅・深指屈筋腱、 関節側面にある側副靱帯)付着部痛
→指の屈伸で痛む 
→痛むので指の屈伸運動をしなくなる。
→たまに屈伸運動する際には、以前よりも強い痛みを感ずる。


3.局所針灸治療

 へバーデン結節の痛みは、筋腱付着部症と関節包の痛みの2種類あるが、腱付着部症の痛みが 主体になると考えられる。一般に施術直後は減痛できるが、持続作用は一両日なので自宅施灸を毎日行わせる。

1)DIP関節基部背面の左右に、2つのこぶ(へバーデン結節)が出現する。その中点に指伸筋腱が走行しており、鍉針でさぐって圧痛がある部に糸状灸。指伸筋腱の末節骨停止部に圧痛あれば、この部にも糸状灸。施術は、DIPとPIPとも屈曲させた状態で行うと、指伸筋腱が緊張するので、効果増大が期待できる。  
2)DIP関節側面の側副靱帯停止部に細針にて浅く刺針。その状態でDIP屈伸運動実施。
3)DIP関節側面の側副靱帯部に圧痛あれば糸状灸を行う。

   

4.遠隔針灸治療
  
指の背面にある指伸筋腱、および指腹側にある浅・深指屈筋腱に続く筋収縮をゆるめる目的で行う。これはⅠb抑制に相当する。すなわち腱を刺激すると腱の続く筋緊張が緩むと言う生理的現象を利用する。余分な筋収縮がなくなると、腱をひっぱる力も弱くなるので関が屈曲しやすくなる。
浅指屈筋腱(第2~第5指のPIP屈曲)と深指屈筋腱(第2~第5指のDIP屈曲)に続く浅指屈筋と深指屈筋は、下図の位置にある。浅指屈筋と深指屈筋に対する刺針は、手根管症状群と同様になる。ヘバーデン結節のPIP関節掌側面中央の痛みに対しては、浅指屈筋に対する刺針になり、郄門あたりから深刺する。

 

指伸筋腱の延長上にある指指筋に対する施術は、三焦経の四瀆(前腕中央)および三陽絡(四瀆の下方1寸)になる。手関節を背屈させた肢位で行うとよい。

5.マッサージ治療   
 
指伸筋腱、指屈筋腱、指でつまんでこするように上下にすべらせるような、商品名「指コロ指圧ローラー」(富永喜代医師考案)で刺激する。本製品はアマゾンで千数百円で入手できる。

 

ただし、このような器具を使わずとも、健側の指腹で指元から指先までつまむようにしてこするようにマッサージを行ってもよい。これも1b抑制理論で説明でき、指伸筋や指屈筋をゆるめる技法になる。1日数回実施。1回5分程度でよい。

 


6.テーピング治療

痛みが強いときは、幅20㎜前後の紙絆創膏(百均ので可)をDIP関節周囲に巻て関節の動きを抑える。特に夜間睡眠時には無意識に指を屈曲するので、紙絆創膏巻きが推奨できる。医療用 絆創膏は粘着力が強すぎて連用すると皮膚角質層にダメージを与えるので勧められない。
 

江島杉山神社と弥勒寺参拝 ver.1.3

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 新年の令和4年1月2日、江島杉山神社と弥勒寺の見学に出かけた。新コロナ禍の中なので、今回は一人で出かけた。両国駅から徒歩10分ほどで隅田川が見た。水上バスが宇宙船のような形だ。それを過ぎるとマンション風の鉄筋建造物があり、出入り口がお寺のような形をしている。何かと思って近づくと「春日野部屋」と書かれていた。このあたりは両国国技館も近く相撲部屋が多いのだろう。

隅田川と水上バス

春日野部屋の正門

 

両国駅から歩くこと10分くらいで江島杉山神社に到着。近所の方々だと思うが、次から次へと参拝に来る人が多く、気合いをいれて手を合わせている人もいた。着飾っている人もあまりないことから、日常的存在として逆に地元の方々の信仰に根付いていることが知れた。

江島杉山神社の一の鳥居

本殿。左に見えるのは杉山和一記念館

 

1.杉山和一の管鍼法発明のきっかけ

和一は江戸時代、伊勢の津で生まれた(三重県の津市の偕楽公園には「杉山和一生誕の碑」がある)。幼い頃失明した和一は鍼で身を立てるため、江戸に出て山瀬琢一に入門した。しかし師から経絡経穴の教えを受けても記憶することができず、師はこれを怒って追放してしまった。悲観した和一は江戸自体信仰修行の場だった江ノ島の岩屋にこもり7日間の断食修行したが満願の日になっても収穫らしきものは得られず、悲観して帰路についた。その道中、石につまずいて倒れたが、足に刺さるものがあるのに気づき、手に取ってみると、それは 筒状になった椎の葉に松葉が包まったものだった。このような筒に鍼をいれて刺入すれば痛くなくさせるのではないかと考えたのが、今日主流の「管鍼術」であった(江戸時代の鍼は太かった)。
なお上記の鍼管法発明のきっかけとなったエピソードは、今日ではよく知られているものだが、”筒状になった椎の葉に松葉が包まったもの”が刺さるということは、少々できすぎた話ではないかとの疑問が残った。杉山流三部書の序を書いた今村亮(明治十三年)によると、「岩屋で断食修行中の夢うつつの状態の時に、鍼管と鍼を授かったということである」とだけ記載がある。

和一の著として非常に有名なものに「杉山流三部書」がある。どのような内容なのか読んでみると、意外なことにすでに知っている内容ばかりだった。このことは現行の鍼灸学校教育に内容が吸収されたことを示している。改めて杉山和一の影響力が大きかったことに気づく。

2.綱吉の褒美としての本所一つ目の土地を提供

杉山和一は時の将軍徳川綱吉(生類憐みの令で有名)の難病を治療・回復させた。綱吉から何か欲しい物はないかと問われ、和一は「この世で何もほしいものはありません。それでもと言うのなら、(盲目の私は)物を見ることのできる目を、と願うばかりです」と応じた。哀れに思った綱吉は、本所一ツ目に三千坪の土地を下賜し、和一は総録屋敷(盲人の職業自治組織)と針灸按摩講習所を設立した。なおこれは世界初の盲人教育の場だった。

和一は、ついに検校の位にまで上り詰めた。検校とは、鍼灸あんまを職業とする盲人の最高位で「けんぎょう」と読ませる。将軍とその家族の治療にあたる者をいう。ちなみに座頭市とは、座頭という低い身分のあんま師で、名前が”市”という意味である。市中を杖をもち笛を吹きつつ歩き、客をとって生活していた。

和一は八十を過ぎても月一度の江ノ島の岩屋の月参りを欠かさなかった。これでは身体がもたないと思った綱吉は、この敷地内に岩屋風の洞窟を造成し、江ノ島弁財天の御分霊をお祀りすることにした。これはすぐに「本所一ツ目弁天社」と呼ばれ名所になり、江戸庶民の信仰を集めた。和一が没したのは、八十五才の年だった。

 

3.江ノ島にある宗像(むなかた)神社

宗像神社とは海難事故の安全祈願の神様で、海辺にあるのが特徴。本家は宗像大社といい、福岡県にある。その支社は宗像神社で全国に数カ所あって江ノ島(江島ともよぶ)もその一つ。宗像神社は、3つで一組になっており、辺津宮(へつぐう)・中津宮(なかつぐう)・沖津宮(おきつぐう)とよぶ。津には”何々の”といった意味がある。三つの神社には辺津宮=田心姫神(たごりひめのかみ)、中津宮=湍津姫神(たぎつひめのかみ)、沖津宮=市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)が祀られている。
辺津宮の女神は美人であることも知られ、弁財天(通称弁天様)ともよばれる。弁財天は<水の神>そして<銭の神>とされている。水の神なので、境内にある池を渡ってお参りする。またそれを守るのは、狛犬ならぬ白蛇と決められている。
池には滝に見立てた水流れが注ぎ、その傍らには琵琶を弾区弁財天の石像がある。

辺津宮、中津宮、沖津宮だが、辺津宮は最も規模が大きく交通の便もよい。しかし沖津宮は小さく行き着くのが難しい。宗像大社の沖津宮は福岡県の北、玄界灘中央の小島にあり、中津宮からは海を隔てて沖津宮を眺めることができる。沖津宮は、現代にあっても女人禁制どころか一般人も立ち入りできない。神職のみ上陸時には海中での禊を行い、神事を司るが一木一草一石たりとも持ち出すことができない。神職は一ヶ月毎に交代で勤める。
 
江ノ宮の沖津宮は元は岩屋にあったというが、1年の半分は洞窟が海水に満ちて入れなくなるので、現在は島の高い処に移されているた。

琵琶を弾く弁財天。手前にあるのが銭洗い場

 

 

4.岩屋の中はどうなっているか

池にかかった小さな太鼓橋を渡ると、すぐに岩屋入口になる。内部に蛍光灯は光っているが少々薄暗い。5mほど歩くと杉山和一像があり、そこがT字路の分岐。右手すぐには
宗像三姉妹の女神を祀っているが暗くてよく見えない。左に曲がって3mほど行くと
大きな蛇像があり、その周りを陶器の小さく可愛い白蛇が何十体ととぐろを巻いていた。

杉山和一像

 

 

宗像三姉妹の像?

 

白蛇の石像

 


5.その他境内にあったもの

江島杉神社は、誕生した経緯が複雑なので、祀っている内容も、多彩で興味はつきない。
①本殿、②杉山和一のレリーフと点字の説明文、④力石(力自慢大会用)、⑤杉多稲荷神社の鳥居と石碑。綱吉が和一に贈った土地は、元は杉多神社だったというが、杉多神社は隅に追いやられた形になっている。
本殿左には近年、杉山和一記念館が設立された。1Fは杉山和一の資料館、2Fは杉山按治療所になっている。ただ正月中は休館ということで見学できず残念だった。

 

和一のレリーフと点字の説明文

杉多稲荷

6.2019年に発見された杉山和一の木像

2019年、和一木造座像が江島神社で見つかった。木像の存在は知られていたが、注目されてこなかった。このたびの調査で和一自らが作らせた唯一の像と判明した。木像は高さ約50cm。頭巾がないこともあって、これまでの和一像と比べて年は若く写実的で、等身大の人間として彫られている。

 

 

7.杉山和一の墓

杉山神社は「神社」であり、神を祀るところなので境内に墓はない。といよりも杉山和一は85歳で没したが、その当時そこは江島神社であって杉山神社ではなかった。明治二十年頃になって杉山和一の霊牌所が再興し、江島神社境内に杉山神社が誕生。昭和27年に合祀し江島杉山神社となった。

杉山和一の墓は、江ノ島にあるが、徒歩15分ほど離れた弥勒寺にもあるので、当日は弥勒寺も参拝した。外見はごく普通のお寺で、正月だというのに参拝する人は見あたらない。正門を入って、右側は墓地となっている。すぐ左側にはお目当ての「杉山和一の墓」と「はり供養塔」が並んでいた。両者とも質素なものだった。和一の墓前には、なぜかセイリンディスポ針のカラの包装が落ちていた。鍼灸学生が和一に見守られながら、この場所で刺針練習したとでもいうことだろうか?
はりというと、普通は裁縫用の針の供養のことをさすが、こちら鍼治療用としての鍼である。石碑の上から鍼柄がとび出ているかのような趣向ということは、縦長の石碑は鍼管を表現しているものではないか! 実によく考えられている。この石碑が鍼管法の創始者、杉山和一の墓にあることは憎いばかりの演出である。

 

弥勒寺

現在の杉山和一の墓。(あまり特徴がない。墓誌は江戸時代のものか?)

江戸時代の和一の墓。この形は、江の島にある和一の墓石と同じタイプのようにみえる。

はり供養塔

昭和53年、東京都鍼灸按マッサージ指圧師会、社団法人東京都鍼灸師会など関連六団体により建立された。


9.回向院(追加分)

江島杉山神社と弥勒寺に行った道すがら、回向院にも立ち寄った。回向とは死者を供養するという意味がある。江戸時代に明暦の大火により10万人以上の人命が奪われた。回向院は、将軍家綱は、このような亡骸を弔うべく、万人塚という墳墓を設けた。これが無縁寺・回向院の始まり。交通の便が良い地だったので、江戸中期からは全国の有名寺社の秘仏秘像の開帳される寺院として、参詣する人々で賑わった。境内はさまざまなものが祀られているので、逆に宗教色はあまりない。昔から庶民のたまり場といった感覚で、庶民とともに歩んできた寺院ある。すぐ隣地には江戸時代に土俵が置かれていた場所というのが残っていて、回向院でも勧進相撲が行われていた。力塚と刻まれた大きな石碑が残っている。

 

一番人気は、大泥棒「鼠小僧次郎吉」の墓で、手を合わせる人が尽きることはない。やばい事をしても捕まることがないとされ、墓石を刻んで持ち去る者が非常に多かった。そこでお寺の対策であるが、”お持ち帰り用”として墓石の前に白い塩の塊ようなものが置いてある。これは勝手に削っても叱られることはない。

 

神社内には、水子塚もあって、多数のかざぐるまで囲まれている。このかざぐるま幼くして亡くなった子供を慰めるためにある。青森県の恐山にあるかざぐるまは、北風にビュービューと吹かれているのに対し、回向院のかざぐるまは、暖かいそよ風にゆっくりとクルクルと回っている感じで暖かい。

 

 

 

江の島の今昔と杉山和一の墓 ver.1.1

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1.江の島道

私の住む街の隣に立川市があり、そこに「江の島道」とよばれる通りがある。この道は江の島まで続くのかと前から気になっていた。調べてみると、江戸時代以前の道の名前は大きな街道は別として、付近の住民が勝手に名前をつけることがあったという。江の島道は数百メートルの長さしかないが、その南の方角に江の島があった。

江戸時代頃から江ノ島は信仰の島とされ、庶民の間では江ノ島参りが流行した。これにあやかったものだろう。

 

 

2.今と昔の江の島
 
外国人が撮影した江戸時代の江の島の写真が残っている。モノクロなので疑似カラー化してみた。江ノ島は陸とは砂州でつながっていて、干潮時は歩いて渡ることができた。その時以外は舟で渡った。

江戸時代の江の遠景は、現代とあまり変わらない。ただ手前にある北側(片瀬地区)は緑豊かである。
浮世絵師の葛飾北斎も、富岳三十六景のシリーズとして「相州江の島」として下記の絵を描いている。意外にも写実的描写をしていることに驚く。


3.信仰の山としての江の島

宗像(むなかた)大社とは沖津宮、中津宮、辺津宮の総称で、それぞれ天照大神の三女神を祀っている。福岡にある宗像大社がとくに有名で、その沖津島は世界遺産に登録されいる。江の島にもにも宗像大社がある。辺津宮の女神が美人だったことから最も人気があって、弁財天(通称、弁天様)との別称がついている。江戸の住民にとり、江の島の弁財天にお参りできる信仰の山で、手頃な観光としても人気だった

上写真は、辺津宮にある弁財天。通称、はだか弁天。辺津宮の女神である。人づてにこの噂を聞きつけ、これを見たさに多くの者がここを訪れたことだろう。



          

    江の島仲店通りと一の鳥居

 

江の島の入口には朱の大きな鳥居があり、道は3本に分かれている。正面道は竜宮城のような建物をくぐり階段を登ると辺津宮に着く。左の道はエスカー乗り場である。エスカーとは、数十年前につくられた有料の連続する何段ものエスカレーターのことで、楽して辺津宮まで連れてってくれる。ただし下りのエスカーはないので階段で下りる他ない。和一の墓石は、右の坂道を上ってすぐの処にある。


 


4.杉山和一の墓石

杉山和一は85才で没した。和一の墓はもともと両国の杉山神社に近い弥勒寺にあったが、和一にゆかりの深い江の島にも分祀して建立した。この墓は江戸時代に建立されたようで歴史的重みがある。弥勒寺のものと比べて規模が大きい。


5.江の島灯台から岩屋までの道

辺津宮からの道は割合平坦で、間もなく江の島灯台に着く。ここは展望台を兼ねている。展望台にはシーキャンドルという、つまらない名前がつけられてしまった。歴史の重みがなく、いかにも脳天気な若者が喜びそうなネーミングだ。
参拝者は、辺津宮、中津宮、奥津宮の順番でお参りすることになるが、次第に歩く人は減り、道も細くなる。奥津宮を過ぎると道は急な下り坂となり、海岸に達する。この岩だらけの海岸は稚児の淵とよばれる。海岸には岩屋とよばれる2本の海蝕洞窟がある。第一岩屋は152m、第2岩屋は52mの長さであり案外短い。これが岩屋である。この洞窟こそが江島神社の発祥地になる。

江戸時代の奧津宮は、この岩屋にあった。和一は、この岩屋で21日間の断食修行し、針管法を着想した。岩屋は一年の半分くらいは洞内に水が入ってくるので、現在の奥津宮は山の上に移設されたものである。


4.江の島「岩屋」と杉山神社「岩屋」

上写真は、現代の岩屋。左下にあるのは岩屋までのびる高架通路。足が海水に浸かることなく洞窟見学ができるようになったのはよいが、「苦労して洞内に入りました」との達成感も失われてしまった。 

江戸時代の岩屋は、浮世絵の人気の題材で、多くの絵師が描いている。下は歌川国貞のもので、これを見たら一度は行きたくなるに違いない。

 

杉山和一は、江ノ島の岩屋で断食修行し、針管法を発明したので、宗像大社に厚い信仰をもってた。八十才を越え検校(盲人針医の最高位)にまで上りつめた後も、月に1度は江ノ島詣を欠かさなかった。両国から江の島まで直線距離でも60㎞はあって、当時の人は健脚だったにしても片道丸二日の行程だった。これを知った将軍綱吉はこれをねぎらい、両国の本所一つ目の地の江島神社内に江ノ島岩屋に似せた洞窟を造成し、参拝できるようにした。江戸庶民も、わざわざ江ノ島までお参りに出向く必要がなくなったといって歓迎し、江島杉山神社は大きな賑わいをみせた。
 
江島杉山神社については、以下の拙著ブログを参照のこと。本稿をもって杉山和一についてのブログ三部作が完成しました。これは杉山流三部書にあやかったネーミングになります。

江島杉山神社と弥勒寺参拝 ver.1.3

2024.4.18

三重県津市、偕楽公園内<杉山和一、生誕の碑>参拝 2022.11.1

6.べんてん丸

岩屋を参拝した後は、渡し舟「べんてん丸」に乗船すること約10分で、江の島弁天橋のたもとまで運んでくれる。ただし気象状況によって運休になることもある。昔私が行った時は、運休していた。やむなく行きと逆コースを徒歩で戻った。急坂に苦労した覚えがある。

 

睡眠のトリビア ver.1.2

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1.睡眠の目的

睡眠の目的は疲労回復にあることに異論はないが、最終回答とはいえない。というのは「疲労とは何か」についての疑問にとって変わることになるだけだからだ。より本質的な回答として、眠りの目的は脳の深部温を下げるためとされている。
体温や脳の深部温は、心身の活動に比例しており、起床時に低く就寝時に高い。前頭葉が過熱すると能力が低下し眠気を生ずる。最初に起こる睡眠は、ノンレム睡眠 (詳細後述)で、脳深部の血流が減少して加熱を防ぎ、また深部体温を強く下げる作用がある。疲労は睡眠中に回復するが、その主役は成長ホルモンによる。

2.レム睡眠とノンレム睡眠

睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠の2種類ある。起きている間は目は素早く動いているが、眠ると目は動かなくなる。しかしながら90分もすると眠っているにも関わらず、あたかも起きている時のように目が素早く動く現象の起こることに気づき、睡眠の質に違いのあることを発見した。


1)ノンレム睡眠(徐波睡眠)  non-rapid eye movement sleep

ノンレム睡眠は、睡眠の前半に多く現れる。大脳皮質休息の意義があるので、夢をみない。一方、寝返りなど身体はよく動く。睡眠は、まずノンレム睡眠(徐波睡眠)から始まる。このノンレム睡眠には4段階ある。
段階1→段階2→段階3→段階4の順番に深くなる。眠りが浅くなる時は、段階4→段階2となり段階3と段階1はない。これら段階の区別は、脳波に占めるθ波δ波の比率による。
①座って眠った場合、第3段階には移行しない。非常に疲れた状態で第3~4段階に移行した場合、ソファに横に寝込むか、転げ落ちてしまう。
②自然に目覚める時は、1度のノンレム睡眠から覚醒状態になるので気分がよい。急に叩き起こされるなど、4度のノンレム睡眠から覚醒すれば非常に気分が悪い。 
③ノンレム睡眠がとれないと眠りは浅く、病気にもかかりやすい。カゼをひきやすく、ガン細胞の発生を抑制できなくなる。これは免疫細胞であるNK細胞がノンレム睡眠のときに最も活動が活発になるため。


2)レム睡眠 rapid eye movement sleep
    
レム睡眠時の脳波はθ波(ノンレム睡眠の第1段階と同じ)だが、瞼の下で眼が動くので、REM(Rapid Eye Movement 急速眼球運動)睡眠とよぶ。レム睡眠の役割は身体休息にあり、この間骨格筋は弛緩して、その間あまり寝返りなどの動きはないが、精神は活動して夢をみる。夢は見るが、筋はゆるんで動けないのでおもわぬ事故は防げている。生理的な日中活動時は、基本的に交感神経優位状態であるが、このレム睡眠は、きつく巻かれたゼンマイを緩めるように、副交感神経優位状態にする役割がある。
    
入眠後約90分でレム睡眠に移行。約90分周期でレム睡眠が起こり、1回平均20分間持続する。一晩にこの周期を3~4回繰返すが、レム睡眠は明け方に近づくほど時間は長くなる。睡眠の25%がレム睡眠。レム睡眠の比率は、新生児に長く、加齢とともに割合は減少する。

①レム睡眠時、成人男性は生理的に一晩に3~5回勃起する。これは性的刺激とは無関係。「朝立ち」は、最後のレム睡眠のタイミングで目ざめた場合に生じている。
②早朝覚醒や短時間睡眠では、レム睡眠は不足してくる。脳の疲労回復はできても、身体の疲労回復は充分ではないので、自律神経失調をきたしやすい。仮に1回90分未満の睡眠を計8時間分とっても、レム睡眠時間は不十分である。
③筋肉が弛緩して動けない状態「金縛り」は、レム睡眠から急に覚醒した場合に生ずる。

       

 

3.天然の睡眠薬メラトニンと松果体
 
①生物には中枢に体内時計がある。この機能をつかさどっているのが松果体で、松果体から分泌されるメラトニンは、強い光では分泌が減り、暗くなると分泌を増やすことで、は天然の睡眠薬として作用する。
  
②松果体は、脳の深部中央にあり、松果(=松ぼっくり)の形をした、直径8ミリほどの内分泌器官だが、大脳が進化発達して巨大化した結果、押しやられて脳の中心部に位置し、視覚機能は退化していった。しかし脳の中心にあることで、第六感としての機能だとする見解が生まれた。開眼(かいげん)という言葉は、この第三の眼の能力が身についた、すなわち悟ったという意味になる。

手塚治虫の漫画「三つ目が通る」では、主人公の少年には左右の目の他に額にも目があるが、普段は絆創膏で隠している。普通は無邪気な性格だが、絆創膏をはがすと古代人の力を受け継いだ超能力者と変貌するのだった。


③17世紀のフランスの哲学者デカルトは精神と身体とは完全に交流がないとする人間観を主張する一方、精神と肉体の相互作用を松果体の役割だと考えた。大脳半球は左右に分かれているが、当時の解剖から松果体は中央に一つしかない(現在は、松果体も左右2つあることが判明)ことで、精神と肉体の統合に関係していると推察したのだった。

興味深いことに、バチカン市国のサンピエトロ大聖堂の中庭には、松ぼっくりのモニュメントが鎮座している。

下写真は、地元にある一ツ橋大学図書館の外壁で、ここにも松ぼっくりの装飾を発見した。



③仏像の白毫(びゃくごう。間のやや上に生えているとされる白く長い毛。光を放ち世界を照らす)やヒンズー教のシバ神の額にある第三の目などの神性と松果体との関連は不明。インドの既婚女性ヒンズー教徒がする、ビンディー(前額部への赤く小さな丸模様をつける)は、元来は貞操を守る風習からのものであるが、今日では一種のオシャレとして既婚未婚を問わず行われている。

  

 

 


④眉間は、中国医学では「闕」ともよばれ、古人は肺病の診察点として用いた。「闕」には要塞や都市を守る城壁の大きな門、そして門の間の通路という意味がある。闕はヒンズー教やヨガではチャクラの発する場所の一つとして知られている。チャクラとは体のエネルギーを補給、コントロールするポイントとされている。経穴でいえば、巨闕穴は左右肋骨に挟まれた場所であり、神闕は腹壁が壁のようにそそり立っている体内への入口という意味。

 

ちなみに「厥」は、体内における陰陽の不均衡をさしている。外界から導入されるべき気が滞って体内深部に入らない状況であって、行き場を失った気は体の上部や表に向かって発作を起こすことになる。欮(ケツ)はのぼせのこと。

一方、人相占いは、流派によって呼び名は種々あるが、眉間を印堂と称しているグループがいる。印鑑を押す部位との意味で、これはヒンズー教のビンディーと通じるものがある。なお印堂は鍼灸学ではツボの名称にもなっていることで鍼灸家ではお馴染みになっている。
  
4.不眠の分類


1)神経症性不眠と脳幹網様体興奮

延髄・橋・中脳内部にある脳神経核(白色)と神経線維(灰白色)がネットワークを形成している部分を脳幹網様体と称し、白質中に灰白質が散在する外見をしている。
大脳皮質が興奮して、下行性に網様体賦活系を刺激することで、不眠状態になったもの。その一方で、末梢からの知覚情報は、脳幹網様体を経由し、大脳皮質に伝達され認識される。末梢からの知覚情報には、体内刺激として痛みやかゆみ、体外刺激として身体運動などがあるが、これらはすべて網様体を通過する知覚情報インパルスとして捉えられ、このインパルス数が多いほど意識は明瞭になり、少ないと意識は不鮮明になる。
したがって睡眠誘導には、網様体を通過するインパルスの数を減らすことを考える。具体的には暑さ寒さ、明るさ、雑音を遮断する睡眠環境にすることや、思い悩まないことである。逆に眠気をさますためには、身体運動を行う。とくに歩行(大腿四頭筋)やアクビ(咬筋)は効果的である。 

2)老人性不眠と視床下部機能衰退

老人性不眠は、視床下部の機能衰退が関係している。視床下部の主な役割は、①哺乳類共通の自律神経中枢(体温調節、水分調節、食欲調節、睡眠調節)と、②生体時計(意識に応じた内分泌の活動調整)である。老人の生体時計は、24時間という覚醒と睡眠のリズムを刻むことは難しくなり、分断睡眠や昼寝、早朝覚醒が起きやすくなる。

 

5.不眠の日常的対処法
 
1)寝付きをよくするメラトニン分泌増大
   
眠る予定時刻の2時間前からは、明るすぎない照明にして、睡眠物質メラトニンの分泌を促す。(2時間ほどで充分な量にまで増え、眠くなる)。逆に寝覚めの悪い者は、起床時に眼に強い光を十分浴びる。
 
2)熟眠するACTH分泌増大
       
熟眠感を得るには、眠った後の最初のノンレム睡眠を深くすることが重要である。疲労回復、細胞修復してくれる成長ホルモンは、ほとんどが一回目のノンレム睡眠中に分泌される。
ノンレム睡眠を深くするためには、ストレスホルモン(副腎皮質刺激ホルモンACTH)が必要である。ストレス物質そのものは、眠りを妨げるが、ストレスのない状態に変化すると、ストレス物質は分解されて睡眠薬様物質に変わる。このことは多忙な仕事後や、深い悲しみの後にはぐっすりと眠れるという常識に科学的根拠を与えている。精神的なストレスを除けない場合は、運動ストレスを与えることで、精神的ストレスを軽減させることができる。これを眠る2時間前に行う。


立位前屈時痛と立位背屈時痛の浅層ファッシアの状態

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私の背腰殿痛に対する治療は、背腰殿部の反応を診るため側腹位にして、背部一行線や背部三行腺の反応点を探して刺針することを先行させる。その後、ベッド傍に立たせ、痛む動作をさせる。多くは上体を前屈・回旋させて痛みの程度を自己チェックさせる。これで症状が消失したら好都合なのだが、実際には症状半減する程度のことが多い。追加で治療を続けることになるが、”二の矢”としての治療は立位で行う。
一般的に腰痛は立位で感ずるものである。痛む姿勢にして、痛む処に治療点を求めるのが治療の原則だからである。

1.立位前屈時の痛み
 
1)最大前屈姿勢にての圧痛点施術

立位でできるたけ深く前屈させることで、背腰筋を伸張すなわち浅層ファッシアを伸張させる。この時、椅子やベッドなどに手を添えて上体を支えないようにする。添  え手を置くと、背腰筋への伸張負担が減るので正確な圧痛点を調べることができなくなる。

手は下肢に添えるようにする。そして術者は患者に、「もっと深く腰を曲げて...」と促し、「どこが痛いのかを指さして...」と誘導する。指で示した部に刺針して軽く手技針をする。さらに「今はどこが痛みますか。指で示して下さい」と質問する。すると先ほどの痛む部位とは別部位を示すので、そこにも刺針して軽く手技を行う。3~5回、このような応答を繰り返すうちに、患者は痛む場所を示せなくなる。これで治療終了である。
  
2)腸骨陵での腰方形筋付着部症
   
腸骨陵で、腰方形筋が起始している部が、筋付着部症となっている場合がある。この病態は、立位前屈位で、腸骨陵上縁の圧痛点を調べることで判定する。代表的な圧痛点には、腰宜(ようぎ)や力針(りきしん)がある。立位前屈位で、圧痛点に刺針、雀啄する。ここは筋が強靱なので、寸6#2のような細い針よりも、寸6#4以上の太い針を使うのが適している。腰神経叢や胸腰筋膜を狙っている訳ではないので、深刺する必要はない。
筋付着部を刺激することで、1b抑制は働き、腰方形筋の筋緊張が緩む。

①腰宜:  立位で上体を強く前屈し、腰方形筋伸張肢位。L4棘突起下の外方3寸。即ち大腸兪の外方1.5寸。
腰宜穴から直刺すると下行結腸を刺激できる。木下晴都は、左腰宣を便通穴とよび、習慣性便秘の治療穴としていた。

②力針:立位で上体を強く前屈。L4棘突起下の外方4寸。2寸#4腸骨稜上縁から刺針。


2.立位伸展時痛の治療

腰痛患者の中には、中腰になって治療室に入ってくる者もいる。背中を反らすと痛むという。要するに立位背屈時痛である。このような場合、足指と壁の距離が10㎝程度離して壁に向かって立たせる。顔はどちらか一方を向かせ、胸と頬を壁に密着させるようにする。術者は背腰の起立筋を押圧し、何カ所か圧痛を探す。そして圧痛点に刺針する。その状態で、壁から離れて、上体の屈伸動作を行わせ、治療効果を確認する。効果不足なら、再び壁に向かって立たせ、再度圧痛点と探して刺針する。


3.浅層ファッシアの病理

筋の伸張時痛はファッシアが癒着して伸張時に滑走性の悪いことが筋膜症の原因とさ れている。一方、上体を反らす際の痛みの理由はこれまでうまく説明できなかったが、運動と医学の出版社編「筋膜はなぜ痛い?皮膚のシワ、突っ張りのメカニズム」YouTube動画 をみると、興味深い内容が示されていた。下写真のように分厚い本を縮めるような運動の際、ファッシアを引っ張り上げて剥がされる時のような機序で痛むのではなかとの見方である。
背中を屈曲する時の痛みは、癒着している浅層ファッシアが伸張する際の痛みであり。背中を伸展する時の痛みは、浅層ファッシアが剥がれる際の痛みという見解である。
どちらにしても、深層より浅層のファッシアの方が力学的ストレスが大きいので、深刺する必要はないだろう。

 

 

腰背部刺針、四つの狙い処 総集編 ver.1.2

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背部一行刺針(棘突起肺胞5分)刺針と、棘突起外方1寸刺針、さらに棘突起外方3寸からの刺針の相違について整理した。断片的には、これまでも当ブログ内で部分的に説明したものだが、それぞれの違いについても比較検討してみた。私見も多く入っているので、初学者向とはいえないが、本質的な内容を問うものとなっている。

1.固有背筋の種類
     起始・停止とも腰背部にある筋を固有背筋とよぶ。固有背筋は次のように分類されている。


             
     

2.浅層筋
 
固有背筋は浅層筋は起立筋で、起立筋は抗重力筋として作用する。起立筋は棘筋・最長筋・腸肋筋の3種類あるが、これら3筋間はしっかりとした筋膜(ファッシア)で隔離しているわけではないので、筋膜癒着による痛みは起こらない。たとえば最長筋と腸肋筋の筋間はファッシアがないので、ファッシア癒着による痛みは起こりようがない。

起立筋浅層は胸腰筋膜浅葉に覆われるが、腰痛症で腎兪や大腸兪に圧痛はあまり出ないことから、起立筋筋膜は腰痛との関連は薄いと私は理解するようになった。
起立筋を覆う浅層ファッシアや皮下筋膜をターゲットとして1㎝程度の多数浅刺置針をすることはある。背中全般のコリ、体調不良、あるいは不眠症というような、交感神経緊張症に対するリラクセーション目的の治療に使うのが自分流である。


3.深層筋(棘突起外方5分)
棘突起外方5分は、昔から背部一行あるいは夾脊(ないし華佗夾脊)と名づけられた。

第1胸椎棘突起から第5腰椎棘突起までの、棘突起から外方5分(あるいは棘突起直側)から直刺深刺すると、針は浅層で棘筋を貫通して深層で半棘筋・多裂筋・長短の回旋筋それぞれの起始部に入る(腰椎部に棘筋はなく、その代わりに多裂筋が発達しており、多裂筋刺針になる)。支配神経は、脊髄神経後枝内側枝。

専門医の間でも急性腰痛の原因筋として多裂筋が問題だとする見解がみられるようだが、腰椎の棘突起傍の圧痛を調べると、Th12/L1間とL5/S1間を除き、他の腰椎棘突起傍5分には圧痛がみられることはめったにないという事実があるので、私としては多裂筋を急性腰痛の主因と考えることはできないと考えている。

背部一行で圧痛が多発するのは胸椎部で、ここは長・短回旋筋である。胸椎は左右の回旋可動域が大きいので、過剰な回旋のストッパーとしての機能が長・短回旋筋に与えられている。

胸椎の正常可動域を越えた回旋では、長・短回旋筋に伸張ストレスが加わり、これが痛みの原因となるだろう。半棘筋は頸椎~胸椎に分布しているが、頭や頚の重量を支持する意味があるので、胸椎運動との関わりは、長・短回旋筋ほど密接ではない。
 

脊椎一行に圧痛は多発するが、椎体棘突起の側面を母指腹でこすりつけるように押圧した際、圧痛を伴うグリグリした肥厚を触知する部が治療点となる。健常部はこのような肥厚はみられない。正常であれば皮下組織の上層と下層は身体の動きによって滑走するのだが、この間のファッシアの癒着があると、上層のみつまみあげることができず、上層と下層ともにつまむので分厚くしかも撮痛を感ずる。これは撮診法による撮痛部であることを示し、浅層ファッシアの癒着部であることを示している。胸椎背部一行の皮膚知覚支配は、脊髄神経後枝内側枝であり、深部の半棘・多裂・長短の回旋筋も同様に後枝内側枝が運動支配している。


胸椎の棘突起外方5分から深刺して長短回旋筋に刺入すると、後枝外側枝興奮による背痛だけでなく、前枝症状である側胸腹部~前腹部の痛みまで改善できることは、解剖学的に考えにくいことだが、私はこの現象を数十年観察してきた。たとえば本態性肋間神経痛による側~前胸部痛が、多裂筋刺針で改善できるケースが非常に多いことを確認した。

この数十年、慢性虫垂炎と診断された右下腹に限局した痛みも、Th12/L1レベルの夾脊刺針で改善できたりする。 横突棘筋の圧痛と、症状部の位置関係は、脊髄神経の後枝皮枝の走行に従うことを発見した。撮痛帯を調べると、結果として背部一行上の圧痛点を始点として外下方60°(あるいは45°)方向に出現する。

このような反応パターンで最も臨床で遭遇するのが、メイン症候群(Th12/L1間椎間関節症を原因とした腸骨陵上部の放散痛)といえる。実際の針灸臨床では、症状部を確認したら、その内上方60°の棘突起傍の反応を調べ、その圧痛点に刺針するという逆の手順で行う。

 

4.深層筋(棘突起外方1寸)

腰背部の深層筋は椎体の棘突起~横突起間にあるのが特徴で、その起始停止より横突棘筋と総称される。横突棘筋は、浅層から深層の順に、半棘筋・多裂筋・長短回旋筋となる。
 棘突起の外方1寸から深刺すると、まさしく横突棘筋を刺激できる。横突棘筋を刺激するなら、前述の棘突起外方5分からの深刺と大差ないと思うだろうが、外方1寸からの深刺には、体幹前前に回り込むように響くという性質がある。この機序については、後述の「本態性肋間神経痛の針ちりょうについて」を参照のこと。一方、棘突起外方5分からの深刺では遠くまで響くような針響はまず起こらない。

 

1)本態性肋間神経痛の針治療につて

本態性肋間神経は、肋間神経走行部周囲筋(内・外肋間筋)が緊張し、神経を絞扼した結果、その部より末梢を走行する神経痛だとされていた。しかし改めて基本に立ちかえると、知覚神経は上行性である。たとえば足関節捻挫の痛みは上行性の知覚神経を通って中枢に伝わって、脳が「痛い」と認識される。これと同様に考えると、肋間神経痛は実は筋のトリガーポイント活性の結果として出現した筋の放散痛だろうとする認識がある。これがMPS(筋々膜性疼痛症候群)の考え方になる。肋間神経痛様症状は、横突棘筋のトリガー活性が主因で、その放散痛がたまたま肋間領域に現れたと理解する。

このあたりの詳細については以下のブログを参照のこと。

https://blog.goo.ne.jp/ango-shinkyu/e/2e5b7fa2601d28e0eab6ad97849b80ed

2)咳嗽、喘息に対する針治療について

成書をみると、咳嗽や喘息といった副交感亢進状態となった胸部症状に対して、座位でTh1~Th5棘突起の外方1寸から深刺(または多壮灸)するという治療法が数多く書かれていて、定番治療となっているかのようである。座位で施術するのは、交感神経優位に誘導するための方法。そこに上部胸椎の背部一行に強刺激を与える。肺や気管支の内臓体壁反射中心帯はTh1~Th5なのでこれ体壁内臓反射をねらった施術であると同時に、強刺激することで交感神経優位にするねらいがある。
ところでTh1~Th5棘突起の外方1寸からの深刺は、横突棘筋への刺激を目的としているのだが、このような刺針をすると、脊柱に沿って下方に響いたり前胸壁に響いたりする。これも横突棘筋を刺激した放散痛といえる。


3)柳谷素霊の五臓六腑の針について

膈兪~脾兪付近の高さの横突棘筋に刺入すると、肋間に沿って回り込むような響きが得られるが、肋間神経支配である横隔膜辺縁部を刺激できることが重要である。Th7~
Th12の高さの胸郭深部には、横隔膜停止部が付着している。横隔膜の閾値は低いので、横隔膜に響かせることができる。
横隔膜への針響は、被験者にとっては未経験なことが多く、胸に響いた、胃に響いた、みぞおちにに響いたなどと表現する。柳谷素霊が「秘法一本針伝書」で示した五臓六腑の針(膈兪、脾兪、腎兪)は、この横隔膜神経に響かせたものであると説明できる。腎兪は横隔膜辺縁部ではなく、横隔膜脚を刺激するという意味がある。


                     

             

https://blog.goo.ne.jp/ango-shinkyu/e/4def4967b4651eb11221c8cf63c3a6ee

 

5.背部3行線(棘突起の外方3寸)
  
背部3行線とは膀胱経背部2行線のことで、志室・胃倉などが並ぶラインである。
志室の取穴は、解剖学的には腸肋筋と腰方形筋の筋間を取穴する。腸肋筋は脊髄神経後枝支配、腰方形筋は分類適には腹筋の一部で腹筋は脊髄神経前枝支配。両者の筋間には胸腰筋膜深葉という強靱な筋膜が発達していて、深部に腰神経叢もあるので、この2筋間を刺入点として針を横突起に向けて刺入すると、広範な針響を与えることができる。
主な適応は慢性腰痛の他に、下腹部・鼠径部・陰部・大腿前面・大腿内側症状に適応があり、尿路結石疝痛の鎮痛にも有効である。

 

胃倉は下中背部でTh12/L1棘突起間の外方3寸にある。このあたりは筋構造が複雑な外縫線部(側腹筋と背筋の接合部で筋が複雑に入り組んでいる)部なので筋膜癒着が起きやすい。胃倉は慢性背痛の他に胆石症の鎮痛に効果がある。

6.まとめ

1)背腰痛は脊髄神経後枝興奮症状なので、背部一行(棘突起外方5分)刺針を用いる。後枝内側枝興奮の原因は、横突棘筋ファッシアの癒着による滑走不良の結果である。
この部の圧痛があると、腰背部の脊髄神経後枝皮枝走行部の撮痛帯もでてくる。このことは、背部一行(棘突起外方5分)刺針は浅層ファッシアの興奮性を軽減する作用があるといえるだろう。

2)体幹前面が痛むのは脊髄神経前枝興奮症状されるが、これは横突棘筋のトリガー活性した筋放散 痛だろうと考えている。針治療としては棘突起外1寸から深刺して横突棘筋に刺入する。この好例として、本態性肋間神経痛に対する横突棘筋への刺針があげられる。これは横突棘筋の深層ファッシアの興奮性を軽減する作用といえるだろう。

3)Th7~Th12の高さの横突棘筋刺針は、横隔膜辺縁部を支配する肋間神経支配なので、この範囲の棘突起外方1寸からの深刺は、横隔神経を刺激し、横隔膜に響く。これを被験者は胃に響く、あるいはみぞおちに響くなどと表現することが多い。 この刺法を柳谷素霊は、五臓六腑の針と称したのであろう。

4)棘突起外方3寸の流れは、中背部では外縫線、腰部では胸腰筋膜深葉の存在により筋膜癒着の好発部位である。筋膜を刺激して滑走性を回復させる目的で、胃倉や志室から刺針する。胃倉も志室も脊髄神経後枝支配筋と前枝支配筋をしっかりと分離するような強靱な深層ファッシアが存在している。この癒着を改善する効果があると思われた。

 

手根管症候群の針灸治療 ver.2.2

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1.手根管症候群の概要   

手根管とは、手根骨と屈筋支帯(旧称は横手根靱帯)の間隙をいう。ここを縦走する正中神経が圧迫刺激され、圧迫部から末梢の正中神経麻痺が生じた状態。透析患者、閉経前後と妊娠・出産を機に多発する。

正中神経麻痺は、高位麻痺と低位麻痺(肘から遠位での神経絞扼障害)があり低位麻痺がほとんどである。低位麻痺の代表疾患が手根管症候群になる。円回内筋症候群も正中神経低位麻痺になるがマレな疾患。

※透析アミロイドーシス:透析中、手がしびれると訴える。ある種の線維状のタンパク質が屈筋支帯に沈着して太くなり、正中神経を圧迫。

 

2.手根管症候群の症状・理学検査

1)ファーレンテスト Phalen test     
手首を強く屈曲(掌屈)させる際の痛み。

 

2)正中神経低位麻痺症状

走行部(小指以外の指端)の痛みと異常知覚(ピリピリ、ジンジン)。母指対立筋の筋力低下、短母指外転筋の筋力低下、母指球萎縮。     

 

3.手根管症候群の治療  

1)局所治療点である労宮穴

手掌中央で、第3第4指屈筋腱の間に労宮穴をとる。労宮と手関節掌側横紋の中央 (=大陵穴)を三等分し、大陵に近い側の 1/3を「労宮移動穴」と定める。労宮移動穴から直刺すると、手掌腱膜→手根管(内部に正中神経と長・短手根屈筋腱)→虫様筋に入る。


この治療の直後は手のしびれは若干改善するのが普通だが、症状は間もなく元に戻りやすい。 局所治療に併せて腕神経叢や斜角筋を刺激することも行われるが、針灸が有効か否かは不明。手根管症候群の病理は屈筋支帯による手根管の圧迫にあり、筋々膜刺激ではどうにもならないのかもしれない。

 

2)手の腱に対するグライディングエクササイズ Gliding Exercise(滑走訓練)

手指には、長指屈筋と深指屈筋という 2つの屈筋腱がある。これらの腱は鞘内でまとめられ、その下の骨の近くに押さえつけられている。関節の動きを生み出すため  に、腱はこの鞘内だけでなく個別に滑る必要がある。この訓練は、前腕屈筋側にある浅指屈筋・深指屈筋を強圧した状態で行うと、腱がより伸張されるので治療効果が増す。この治療原理は、バネ指の運動療法、ヘバーデン結節の運動療法と治療と同種のものである。

 

 

 

凍結肩の針灸治療

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凍結肩の臨床症状は、関節症状(癒着性関節包炎や癒着性滑液包炎)と、これに付随した保護スパズムによる伸張時痛の混合したものになる。
ROM制限があり、かつ結髪・結帯動作で痛むタイプで、とくに夜間痛のある者は、非常に苦痛を感じる。このようなタイプが針灸治療を求める。一方、ROM制限があるも痛み少ない凍結肩完成期では、患者は生活に不便を感じるが、あまり痛まないので日常生活を何とか過ごすことはできる。
自覚痛の強い凍結肩の場合、針灸治療はどのように行うべきかのかを考えてみる。

1.ADL制限を生じている過緊張筋に対する治療

凍結肩による肩関節の運動制限の本態は、肩関節の関節包の癒着なので、どうにも対処することができないが、運動痛であれば筋緊張と結びつけて考えることが可能である。凍結肩での主要症状は、次の3つに要約できると思う。

1)外転制限
棘上筋に続く肩腱板のエンテソパチー enthesopathy(腱付着部症)針灸治療は、肩髃深刺で肩腱板を刺激、また巨骨斜刺深刺で肩腱板刺激。

2)結髪制限
結髪制限に関わるのは肩関節の屈曲・外転・外旋であるが、その中核となるのは外旋にあると考えている。肩関節癒着が本態。過緊張状態にある棘下筋(天宗)と小円筋(臑兪)が伸張された際に痛みに対処。結髪動作をしようとする肢位にて施術する。

3)結帯制限
結帯制限に関わるのは肩関節の伸展・外転・内旋であるが、その中核となるのは内旋にあると考えている。肩関節癒着が本態。過緊張状態にある肩甲下筋(膏肓から肩甲骨-肋骨間へ刺入)と、大円筋(肩貞)が伸張された際に痛みに対処。結帯をしようとする肢位にて施術。

 ※肩貞と臑兪の位置についての私見
標準的には肩貞は腋窩横紋の後端から上1寸にとり、臑兪は肩甲棘外端の下際陥凹部にとっている。しかし本稿では肩貞を腋窩横紋の下で大円筋上にとり、臑兪を腋窩横紋下で小円筋上にとる。このようにすると臑兪=小円筋では結帯動作の治療穴、肩貞=大円筋で結髪動作の治療穴になるので整理しやすいと思う。


2.結髪動作制限と結帯動作制限制限の運動療法

結髪制限は、肩関節外旋筋の過収縮、結帯制限が肩関節内旋筋の過収縮がROM制限の主役である。これらの伸張がリハ訓練になる。

                 内旋運動→大円筋緊張訓練。結髪動作制限時に。
                 外旋運動→小円筋伸張訓練。結帯動作制限時に。

上図で右凍結肩の場合、両手を右に動かせば、右肩は外旋動作で小円筋伸張訓練になり、左に動かせば内旋動作で大円筋伸張訓練になる。実際の凍結肩では、結髪動作と結帯動作が同時に制限を受けているケースが多いので、本訓練は合理的だろう。

 

3.浅層ファッシアと「次どこ」方式
   
凍結肩であれば、結髪制限に対して膏肓から肩甲下筋刺針および肩貞から大円筋に刺針、結帯制限に対して棘下筋から天宗に刺針および臑兪から小円筋に刺針しても、大した効果のみられないことは非常に多いのが現実である。動作分析による障害筋の推定という方針は、痛みが頸部・肩甲上部・大胸筋部・上肢といった広範に及ぶ場合、治療ポイントが絞りきれない。圧痛点に施術するにしても治療点が多すぎるのである。
 
個々の筋膜の問題、すなわち深層ファッシアではなく、皮下組織に広範に拡がる浅層ファッシアの症状と理解したらどうだろうか。
浅層ファッシアにあって、とくに動作時痛と関係している部位を探りあてるには、「次どこ」方式による治療点の決定が便利である。古くから知られている治療方法だが、このユーモラスな名前は三島泰之氏(著著「今日から使える身近な疾患35の治療法」医道の日本社,2001年刊)で発見した。患者に痛む部位を指差させて刺針し、今度はどこが痛むかを再び指差させて刺針し....といった局所を繰り返す。痛む部が不明瞭になるまで5~10回繰り返す。刺針すると痛む場所が移動するタイプに適する治療法といえる。もし刺針しても圧痛点が無くならなう部位があるから、その上位治療法として局所集中刺絡をすることも考える。
 

4.条山穴透刺
 
1)歴史と術式
 
下腿胃経のほぼ中央にある条口から深刺して下腿後側の承山まで貫くように刺入する。本刺針法は中国の清代以降に発見されたらしいが、わが国には1970年以降に中国から伝わった情報として知られるようになった。原法に忠実に行うには、6寸もの針が必要となるので、実際の臨床では条口と承山からそれぞれ1寸程度刺入する。原著では条山穴刺針は健側を使うとしている。実際には健側患側どちらを使っても効果に大差ない。

 

2)治療効果
 
座位にて刺針したまま何回か患側肩関節の運動をさせると、ROM拡大が得られることもあるが、効果ない場合も少なくない。筋腱性の肩関節痛には有効であっても、凍結肩になると治療効果が落ちるのはやむを得えない。ただし凍結肩だと診断して局所を中心とした治療をして満足のゆく治療効果が出せず、窮余の策として条山穴透刺をしてみると、肩関節可動域が大幅に拡大したこともある。本当に肩関節関節包が癒着していれば効く筈もないから、過度な保護スパズムにより、凍結肩だと見誤った結果であろう。要するに、やってみる価値があるということだ。


3)治療機序
 
条山穴透刺は肩関節痛全般に効果あるとされるが、凍結肩に対する治効性は高くはない。台湾の陳潮宗(元、中国中医臨床医学会理事長)は、条山穴刺針は肩甲上腕関節の動きよりも肩甲胸郭関節の動きが増加することで、肩甲骨上方回旋の可動性も増す作用があることを発表した。これは結髪動作改善に効果のあることを示唆している。肩腱板炎や腱板部分断裂に適応があるのかもしれない。
      
条山穴がなぜ五十肩に有効となる場合があるのだろうか。条口と肩関節の関係はうまく説明できない。しかし承山は陽蹻脈上にあるツボで、陽蹻脈は肩関節にまで流注しているということで、ある程度説明ができそうだ。

奇経理論の再考察

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1.はじめに

筆者が針灸免許を取得する前から奇経には非常に興味があった。というのも当時の医道の日本誌では、奇経治療がブームとなっていて誌面を賑わせていた。何よりも最初に針灸治療の指導を受けた先生が奇経治療の臨床をやっていたからでもあった。しかし奇経治療のルールに従って治療して効いたという報告が多く、いくら調べても本質的な疑問に対する解答は得られなかった。ルールに従うのではなく、なぜそうしたルールになったのかを知りたかった。
奇経でペアとなる経絡は次のように定まっているが、どうしてペアとするのかにも謎が多い。下記ペアの左側にある陽蹻脈の宗穴を申脈、陰蹻脈の宗穴を照海とするのは納得できるが、それ以外の奇経と宗穴は自経上にないことも納得がいかない。
     

ペアで用いる奇経                                          
陽蹻脈(申脈)---督脈(後渓)                            
陰蹻脈(照海)---任脈(列缺)                             
陽維脈(外関)---帯脈(足臨泣)                           
陰維脈(内関)---衝脈(公孫)             
                             
各経の走行を検討すると、以下の組み合わせの方が自然だと思う。ただし帯脈の宗穴、衝脈の宗穴は定まらない。そもそも帯脈、衝脈に宗穴は不要なのかもしれない。
                               
陽蹻脈(申脈) --- 上肢尺側(後渓)                          
陰蹻脈(照海) --- 上肢橈側(列缺)                           
陽維脈(足臨泣)--- 上肢背側(外関)                         
陰維脈(公孫)  --- 上肢前側(内関)                         
帯脈(?)------ 衝脈(?)     │

                        
奇経に似ていて、手根と足根に所定の治療穴を定めておき、その組み合わせで治療するという内容は、奇経治療以外では「腕顆針法」がある。腕顆針は、奇経の宗穴に相当する部を治療点とするが、手首部に6カ所、足首部に6カ所設定していて、十二位正経に応じている。下写真がその書籍で、表紙に描かれた6本の帯がこのことを象徴している。
奇経は手首部に4カ所、足首部に4カ所の宗穴なので、奇経治療の方が単純化されているという基本的違いがある。腕顆針法は中国の張心曙により考案された。1980年代にわが国には手根足根針と改題され、杉光胤の訳により医道の日本社から出版された。

 

奇経治療については、筆者ブログ2019年12月8日「奇経八脈の宗穴の意味と身体流注区分の考察 ver.2.0」としてすでに説明したが、説明不足の点が多々あった。今回は、わかりやすさに留意して書き改めた。


2.奇経全体の走行  

上図は、私の考えた奇経走行の全体図で、すでに紹介した。ただしこの図の見方について説明をしてこなかった。今回はペアの経ごとに走行を説明する。


3.陽蹻脈と督脈

陽蹻脈は、自経内に宗穴として申脈をもつ。なお「蹻」とは足くるぶしのことをいう。陽蹻脈とは、足の外果を起点とする流注であることを示している。
陽蹻脈のペアとなる督脈は、自経内に宗穴はなく、上肢の後渓を宗穴と定めている。ただ奇経治療はペアとなる二つの奇経の手根と足根にある穴を治療点とするのが奇経治療の原則なので、体幹背面の脊柱を上行する流れから分岐して後渓へと走行するルートを模索すると以下の図のようになるだろう。
Th3棘突起くらいのの高さから肩甲棘を内端から外端までを通過し、上腕尺側を流れて後渓に達する。Th3棘突起と肩甲棘は離れているので、流注が途切れているかのようだが、左右の肩甲骨を内転(肩甲骨内縁を接触させる運動)させるならば肩甲棘内縁はTh3に接触できるだろう。
このように考えることで、後渓-申脈は、手首・足首ペア治療が適用できるものになる。 

4.陽維脈と帯脈

陽維脈は、自経内に宗穴はなく、手根にある外関を宗穴と定めている。
ペアとなる帯脈も、自経内に宗穴はなく、足の臨泣を宗穴と定める。陽維脈の宗穴は外関のほかに、本来は帯脈の宗穴なのだが、陽維脈経内の要穴として足臨泣を定めることにすと、手根には外関、足根には足臨泣となり、外関-足臨泣がペア治療として治療点となり、すっきりした解釈ができるだろう。帯脈については別枠で考察する。

身体の背面で、陽蹻脈と督脈の領域以外の部分が、陽維脈-帯脈の担当領域になる。「維」にはつなぐという意味がある。何をつなぐのかといえば、陽蹻脈と督脈の領域と、後述する陰蹻脈-任脈を領域をつなぐ範囲というのが私の理解である。上図では、肩甲骨が点線で描いている。これは陽維脈は肩甲骨と肋骨間を走行することを表現している。

 

5.陰蹻脈と任脈

陰蹻脈は、自経内に宗穴として照海をもつ。
陰蹻脈のペアとなる任脈は、自経内に宗穴を持たず、手根部にある列訣を宗穴と定めている。奇経治療はペアとなる二つの経絡の手首・足首にある穴を治療するという規則があるから、体幹前正中を任脈・陰?脈が上行して、手首へと流れるルートを考察すると、鎖骨内端から外端へと直角に流れを変え、そこから上肢橈側を手首に向けて列欠へと流れるというルートが想定できる。

6.陰維脈と衝脈

陰維脈は、自経内に宗穴はなく、手根部にある内関を宗穴と定めている。
ペアとなる衝脈も、自経内に宗穴はなく、公孫を宗穴と定めている。内関と公孫に施術することで陰維脈・衝脈の証の治療にあたる。
下肢前面→胸腹部の中央以外の前面と上行し、鎖骨にぶつかると直角に折れて上肢の前尺側を内関に向けて上行する。なお衝脈については別枠で考察する。

7.帯脈と衝脈

帯脈と衝脈は、他の奇経と同列に論じられない。この二経は子宮から始まり、初潮から閉経の期間に機能し、婦人病に関与するという共通性がある。他の奇経が自分自身の生命維持を目的としているのに対し、衝脈と帯脈は、新しい生命を誕生させるための機能に関係している。
帯脈は子宮内の血液を留めていく機能で、衝脈は子宮内の血を月経血として下す機能だろうと思われた。互いに相反する作用になる。帯脈の作用は弱まって衝脈の作用が強くなると月経が始まる。

1)帯脈とは
帯を腰上でしっかりと留めておかないと、ズボンが下に脱げてしまうのと同じように、帯脈の機能が低下すると、子宮から血が漏れ出てしまう。これを帯下とよぶ。帯下とは現代でも使われる言葉で、月経以外の膣からの分泌物、オリモノのことをいう。この意味を広義に解釈し、不正出血や月経異常も帯脈の病証に含める。
 
2)衝脈とは
衝脈の「衝」とはぶつかるような、つきあげるような勢いのことをいう。「衝」のつく経穴には、衝門穴、太衝穴など脈拍を触知する部位であることが多いが、気衝穴のように、胃経の走行が直角に折れ、上行した気が勢いよくぶつかるという処という意味でも用いられる。衝脈の衝は、後者の意味である。
 
妊娠可能な女性は、生理的に月に一度月経を迎える。その時、帯脈の機能が弱くなって、月経血を留める力が減ると同時に、きちんと月経血を下す役割が衝脈である。妊娠時は月経が停止して、妊娠初期にはツワリが生じるから、悪心嘔吐も衝脈の病証と解釈されたのだろう。

打膿灸について ver.2.3

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1.序にかえて

打膿灸をしている処は直接は見たことはないが、焼きゴテ治療は見たことがある。今から約30年前頃のこと、小田原市間中病院の間中喜雄先生の治療見学の時だった。

まず皮下へ局所麻酔注射を行ったかと思ったら、引き続き先端一円玉程度の平たく丸い金属性のコテを火で十分熱し、コテ先端を先ほど局麻注射した部分に2~3秒ほど押し当てた。ジューという音がして白い煙が上がった。間中先生は、いつもながらの治療といった感じで特別の感慨もないようだったが、患者も全く熱がっている様子は見せなかったことにはも驚いた。局麻注射の効果は大したものだと感心もした。 

今日、実際に打膿灸を治療に取り入れている治療院は皆無に近くなった、そうした中にあって、東京では葛飾区の「四つ木の灸」は打膿灸を行う治療院として希有な存在である。打膿灸をした後、吸い出しの軟膏(無二膏のようなもの。詳細後述)を塗ったガーゼ布を渡され、膿が出る頃に貼るよう指示される。下写真は、吸い出しの軟膏布を入れた配布用の袋。関西では東京より盛んで、大阪の無量寿、無量寺、京都のおぐりす灸で打膿灸が行われている。る。


2.打膿灸の方法

①小指から母指頭大の艾炷を直接皮膚上で数壮行い、火傷をつくる
②その上に膏薬や発疱剤を貼布することで、故意に化膿を誘発させる。
※膏薬等を貼っている間、ブドウ球菌や連鎖球菌などの細菌感染が発生すると、黄色不透明の膿を排出する。
③4~6週間頻繁に膏薬類を張り替えることで、持続的に排膿させる。
④膏薬類の使用中止により、施灸局所は透明~淡白の薄い膜のようなものががはった状態になり、間もなく乾燥して痂皮形成する。
⑤痂皮の脱落とともに瘢痕組織となり治癒する。焼け痕は残る。



3.打膿灸に用いる薬剤の意義

打膿灸で火傷をつくった後には、火傷部に薬剤を塗布した布を貼るのが普通である。もし貼らないと、短期間のうちに火傷は自然治癒する。その間、なかなか化膿に至らず、したがって膿も出ない。膿を出すのが打膿灸の治効を生む要素であるから、薬剤の作用はわざと治癒を遅らせ、化膿させて排膿を促すことにある。 

化膿とは、化膿を引き起こす細菌が起こした炎症のことをいう。創傷面にあるわずかの細菌の存在よりも、むしろ異物や壊死組織の存在の方が問題になる。たとえば、傷口内に木片や小石が残っていると、なかなか治癒しない。ゆえに膏薬や発泡薬を貼り付けることは合目的性がある。

 


4.打膿灸に用いる吸い出しの「無二膏」

使用薬剤としては無二(むに)膏が知られる。膏薬とは、薬物成分をあぶら・ろうで煮詰めて固めた外用剤のことで。「軟膏」は異なり、かなり硬いので、火であぶって軟らかくしたものを布に塗り、患部に貼り付けて使用する。


無二膏は江戸時代初期から京都の雨森敬太郎薬房で販売していたが、平成29年に販売中止となった。<その効き目は他になし>という意味から無二膏薬と名付けられた。お灸の後の膿出しのほか、疔、ねぶと、乳腫、切り傷などに使用する。膿は体内に生じた毒素を外に出すという役割があると考えられていた。ゆえに傷口にカサブタができるということきうがわとは、毒の出口にフタをしてしまう悪い現象だと考えられていた。ゆえに「膿の吸い出し」といった効能を謳った。現代では、膿の吸い出し薬を使わなくても、異物接触で同様の作用は引き出せるということになろう。

 

 

※参考:浅井(あさぎ)万金膏

江戸時代~平成に愛知県一宮市浅井町で製造・販売された膏薬。平成9年製造中止。浅井森医院の七代目森林平は、いわゆるタニマチで、大相撲力士には無料で治療した。引退した濱碇(はまいかり)という力士がその薬の行商をしたこともあって、相撲膏との別名がつけられた。

現在の湿布に近いが、硬いので温めてから皮膚に貼り付ける。打ち身、捻挫、肩こり、神経痛、腰痛、リウマチに効能がある。古い広告には、「いたむところによし」とうたわれている。

 


 

 

5.打膿灸の意義と適応症
 
打膿灸は非常に熱い刺激で、火傷も残るので、現在ではほとんど行われなくなった。しかし昭和二十年代頃までは、どこに行っても治らないという症状に対して、起死回生の方法としての需要は残っていた。江戸時代のお灸はもともと大きなもので、打膿灸をして膿を出させることは一つの治療法として確立していた。効率よく膿を吸い出せることが重要だった。

ある一定以上の皮膚にできた創傷は、腫れて熱をもち、その後に膿が外部に流れ、その後に治癒するという順序のあることが知られていた。ところが膿瘍や癰がいつまでも出ない場合、病気の治癒を妨げる要因となっていると考えるようになり、身体内部の膿を出すことが病気の治癒に役立ついという考えに発展し、さらに一歩進んで、人為的に膿を出させることも病気の治癒に役立つという考えに至ったのだろう。
打膿灸の「打」という漢字には、打開という熟語の意味するように、開ける、切り開くの意味もある。

すでに皮下まで出てきた膿は、切り傷をつけることで外に出してやろうとした。この目的で用いたのが古代九鍼の鋒鍼や鈹鍼だったのだろう。

当初は体内の毒を吸い出すという考だったが、打膿灸が効果的に効くような病態は自ずと解明されてきて、結局は腰痛や神経痛など様々な症状に用いられるようになった。

打膿灸の意義を現代医学的な観点からみると、化膿することにより白血球数を増加させて免疫力を高める灸法だといえるので、安保徹氏の免疫理論に通じるところがあるといえる。近年では熱ショック蛋白(ヒートププロテイン)の理論が知られるようになった。しなびた野菜を50℃の熱水に1~2分晒すことで、新鮮さを取り戻すことができる。

近年、湯船の温度は42℃以上にしないことが皮膚に火傷をさせず健康に良いというのが常識となったが、これは本当だろうか。かつて銭湯は非常に熱かった。そこをこらえて湯船に入るのが醍醐味だった。最初のうちは必死に耐えるのだが、次第に痛快に代わり身体の芯から温まった。寒い時期など湯船から上がっても身体がポカポカして気持ちが良く、健康に良いことをしたのだという実感があった。ストレス発散にもなった。いずれば打膿灸の治療理論にも、ヒートププロテインの理論が適用される時代がくるのかもしれない。

 

シンスプリントの針灸治療   ver.2.0

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1.シンスプリント  Shin splints(脛骨過労性骨膜炎)の概念

Shinは向こう脛(すね)、Splintsは(骨折時に使う)副木の意味。まぎわらしいことに短距離走者は英語で sprinter であり、シンスプリントは短~中距離走者に多いこともあって、間違いやすい。ランナーの発症率は20~50%と非常に多い。シンスプリントは症候群なので、いくつかの病態が含まれるが、その中心となるのが腱癒着による滑走障害である。しかし筋の骨膜起始部の牽引痛の場合もあり、これは骨膜痛である。痛みが限局性で非常に強ければ疲労骨折を考慮に入れる。
シンスプリントの大部分は後内側シンスプリントで、下腿内方下半分あたりが痛む。少数ながら前外側シンスプリントもあり、下腿前面の上半分あたりの痛みを訴える。


2.重症度分類(Walsh)

ステージ1:運動後に“ジーンとする鈍痛(すねの内側に痛みが多い)
ステージ2:運動中も痛みを感じるようになる。
ステージ3:パフォーマンスに影響(タイムが落ちたり、足をひきずったり)
ステージ4:慢性的な安静時にも持続する痛み。次第に歩行困難となる。


3.後内側型シンスプリント

1)病態

下腿後側深部筋には、後脛骨筋・長拇趾屈筋・長趾屈筋があり、これらの腱はどれも足内果の下方を通って足指に停止している。下腿後側深部筋は足関節底屈作用(つまさき立ち運動)がある。底屈運動の過多で痛みは増強する。
踵を上げて(足関節底屈)走行するこのと多いランニングやジャンプでは、癒着した筋膜間が滑走障害を起こし、強い痛みを感ずることがある。

後内側シンスプリントは、長趾屈筋と後脛骨筋の滑走障害が多いが、長指屈筋とヒラメ筋の滑走障害もある。後脛骨筋が関係する場合には「脛の内側下1/3周辺」に痛みが現れるケースが多く、ヒラメ筋障害が関与する場合では下腿内側中央あたりに痛みが現れる。

2)後内側型シンスプリントの針灸治療

①長趾屈筋と後脛骨筋の滑走障害

2寸針を使用。仰臥位で下腿屈筋の長趾屈筋・後脛骨筋に対して三陰交あたりから刺針し、置針した状態で足関節屈伸、そして足の回内回外の自動運動を行わせる。下腿内側の脛骨内縁の下付近の圧痛点を刺入点とする。腓骨下縁に向けて直刺深刺。 

 


  
②長指屈筋とヒラメ筋の滑走障害

脛骨内縁中央あたりの痛み。本症状では、ヒラメ筋と長拇趾屈筋間のの滑走障害を考える。仰臥位で脛骨内縁の地機あたりの圧痛点を刺入点とする。2~3寸針を使って、腓骨下端方向に向けて直刺深刺し、足関節屈伸、そして足の回内回外の自動運動を行わせる。

③運動療法

踏み台の上に立たせる。その際、踵を踏み台に置き、足の前半分は踏み板の外に置いた姿勢にする。膝を伸ばした状態で、足関節の底屈・背屈運動を大きな動きで30秒間にできるだけ速い動作で行わせる。30秒間休んだ後、両膝45度屈曲位で上記同様30秒間実施。この組合わせを1セットとして3セット実施する。セット間の休みは1~2分間とする。
この運動は、素早く足関節底屈運動を繰り返すことで、筋膜癒着を解消するねらいがある。膝関節を屈曲すると腓腹筋よりもヒラメ筋の運動になる。




3.前外側型のシムスプリント

1)病態
前面外側が痛むタイプ。前脛骨筋と長母伸筋間の癒着による滑走障害。足関節が背屈(足指を足背側に向ける)すると痛みが増強する。


2)治療 

①前脛骨筋刺針

足三里など、下腿前面の前脛骨筋外縁が脛骨に接する部の圧痛を探し、深刺し前脛骨筋の起始部骨膜に刺針する。そのままゆっくりと足関節背屈の自動運動を行わせる。急激な関節背屈運動では深腓骨神経の針響きは非常に強くなり、針体も曲がりやすくなる。

4.シンスプリントの針灸治療効果

運動制限を厳守すれば2週間程度で症状が消失する。運動制限ができない場合、早い者だと1ヵ月程度、長くかかる者では1~3ヵ月程度かかる。スポーツ選手は練習で きないことにストレスを感じているので、治癒までの見通しを示してやるようにする。
片山憲史らの針治療の検討報告では、14名20肢(平均罹 病期間4.6週)に針灸を行い、平均治療期間28日、平均治療回数 4.4回を要した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 


令和6年、玉川東洋医学交友会集会 ver.1.1

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令和6年4月20日、9年ぶりで新宿にて玉川病院東洋医学交友会を実施しました。玉川病院研修生はのべ百名ほどいたのですが、研修生制度がなくなってすでに22年が経過し、住む場所も置かれた立場も異なり、集まる機会も減りました。7年前、代田文誌、文彦両先生の墓参りを兼ね、中央線の高尾駅に集まったのは30名を越えたのに、今回は12名と半減以下となり、淋しさを感じます。そうとはいえ、ある意味で立派なものだといえるかもしれません。集合写真を撮ったので、記録として当ブログに残すことにしました。

2015.5.12  代田文彦先生十三回忌法要

https://blog.goo.ne.jp/ango-shinkyu/e/89915d838cfae4e1a7b547a7cb86db57

 

 

玉川交友会開催の翌日、パソコン内のデータを検索していたら、昭和57年頃の玉川東洋医学科の集合写真が出てきた。まだデジカメが普及していなかった頃。
代田文彦先生も現役、本田徹先生も写っています。当時の私は29才。それにしても皆、若い。人生これから。

心霊写真

左下段にいる山田先生の上にいる黒い服が菊池先生、その隣で首を出しているのが佐藤先生です。しかし菊池先生の両肩に置かれた手は、いったい誰のものでしょうか? 

代田文誌のご家族集合写真(1962年)

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長野市のご自宅居間にて(1962年) 元のモノクロ写真

 

疑似カラーに変換、さらにAIで高精度化


代田泰彦氏(文誌先生の次男)から、暑中見舞いのハガキが届いた。コロナのため巣籠もり状態で、旧い写真を整理していたら、今まで忘れていた代田文誌一家の家族写真が出てきたとのこと。それをわざわざ送って下さった。

この代田家の御家族集合写真は1962年、文誌が長野市に住んでいた頃のもので、文彦先生が二十二歳の誕生日記念ということで座敷で撮影された。文彦先生も松本にある信州大学が夏休みということもあって帰郷し、全員が集まれたのだろう。みなくつろいだ表情をしているのが印象的。
この5年後、文誌は東京の井の頭公園傍に転居し、67才にして新たに治療院「延寿堂」を開くことになる。そのバイタリティに驚かされる。

向かって写真左側から、代田文誌(62才)、泰彦(次男20才)、文彦(長男22才)、千恵子(次女)、やゑ(夫人)、宏子(長女)。文誌先生はこの当時、長野県鍼灸師会会長をしていた。泰彦氏は早稲田大学政経学生、文彦氏は信大医学部学生。

モノクロ写真を手軽に疑似カラー化できることを知った。これまで20代の代田文彦先生のモノクロ写真を載せていたが、これも疑似カラー化したのでご覧下さい。

https://blog.goo.ne.jp/ango-shinkyu/e/dd61c3e0d3149c068ee7a941120cfc8f

 

代田文彦先生と日産玉川病院研修2年目の私 

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昔を懐かしがる年令になったのかもしれない。代田先生は63才にて生涯を終えられたが、それから14年経ち、奇しくも私もその年令になってしまった。私はここで日産玉川病院勤務時代のことを記録に残そうと思う。私が玉川病院東洋医学に入りたいと思ったきっかけは、以下のような「医道の日本」の記事を読んだことが強い動機となった。その頃私は早稲田針灸専門学校を間もなく卒業するという頃だった。当時私は午後からできたばかりの医道の日本社新宿支店でアルバイトをしていて、卒後は医道の日本社の社員とになる予定だったのだ。医道の日本社そのものは居心地がよく、待遇面を含めても待遇に満足してたのだが、結局代田文彦先生への憧れが強く、大きな人生の決断をした。医道の日本社専務からは「どうしても日産玉川東洋医学の採用試験を受けるというのならば、医道の日本社を辞めてからにしてくれといわれた。

 

 

 

 

1.日産玉川病院の針灸研修制度があった頃

日産玉川病院とは、東京都世田谷区で東急田園都市線の二子玉川駅から徒歩20分ほどにある中規模病院である。元々は日産グループ関連社員の結核療養所として誕生した。今日でも日産という名称はあるが、普通の総合病院になっている。30年も昔のこと、日産玉川病院には針灸研修制度が存在した。当時、玉川病院には東洋医学に情熱を燃やしている代田文彦・光藤英彦という二人の医師が在籍していた。というのも当時は今以上に相当な医師不足だったので、医師を招聘するには多少の医師のわがままを受け入れざるを得なかったという事情があったという。二人の医師の要望は、「病院で針灸治療をやりたい」という明快なもので、その真意は現代医療の現場に、医療システムの一つとして針灸が参入できれば、新しい方向性が生まれるだろう」とするものだった。

当初、現代医療の場を提供すれば、訓練生各人がすでにもっている東洋医学的な知識と融合するだろうと期待したが、実際にはそうならなかった。入局した新人鍼灸師のもつ東洋医学的知識でさえ低いことに驚いたと代田先生は漏らしていた。そこで研修1年目は先輩鍼灸師の助手として働き、研修2年目から代田先生担当の入院患者を診させてもらう。3年目は自分で針灸外来患者を治療する傍ら、2年目同様に代田先生担当の入院患者を診るという研修3年計画が誕生したのだった。なお私が入ったのとすれ違いで、光藤英彦先生は、玉川病院を辞めて愛媛県立病院東洋医学研究所所長として赴任していった。光藤先生は代田先生より一年年令が上だったが丸顔であり、代田先生はおでこに頭髪がなかったので、一人一緒に講習会などに参加すると、光藤先生が鞄持ちに間違えられたという。 

日産玉川病院は永久就職先とはいえなかった。東洋医学科として、毎年新人を募集するためには、スタッフが増えすぎないよう、自主的に辞めることも求められたからだ。
このように書くと、暗く厳しいイメージをもつかもしれない。しかし、みな若く体力があり、部活のように明るかった。誰もが明るい将来像を描いていた。

 

2.代田文彦先生の超多忙な日常

代田先生は入院患者を常時二十名近くかかえていた。それだけでなく他に週に2回半日の外来を担当し、また週に2回数時間の道路公団の保険医として出張でクリニックに出かけ、また週1日は東京女子医大耳鼻科で外来担当と研究をしていた。入院院患者に対しては日中に個別の診察の他に、朝と夕の回診を毎日していた。入院患者は1日3回顔を見せるというのを信条にしていた。このような超人的な活動を行うために朝8時から回診を始めるというスタイルをとっていた。さらに常勤医師の義務として月に3回の夜間当直があった。
研修制度2年目というのは、代田先生の入院患者を診させてもらうこと(診察と患者との心情的なコミュニケーション)とカルテ書きが主な業務だった。必要に応じて針灸治療も行った。実際に針灸を併用したのは代田先生の入院患者の3割程度だった。
日常的に代田先生も、東洋医学科の鍼灸師も自分のペースで動いたが、週に2回の病棟館カンファレンスや終業後にある勉強会ではじっくりと相談できる時間帯が用意されたいた。

文彦先生が残した資料(スライドや写真)整理していた際に、出てきた二十代の文彦先生のお写真。おそらく自撮り。
奥様も初めて見たとのこと。モノクロなのは致し方ないとしても、ピントとコントラストが甘いことが惜しまれる。

 

モノクロ写真をPCで簡易カラー化してもピントはシャープにならなかった。
しかしさらにAIで高精度化すると、見事によみがえった。
これならば奥様の瑛子先生も喜んでくださるだろう。

 

3.代田文彦先生の乱暴な言葉遣いの裏にある心遣い

私が2年目になって初めて経験する代田先生の当直で、夜間病棟回診ということで午後8時頃、あるナースステーションにいた時、あるの肺性心患者が腰が痛いと言っているとの報告を受けた。私も知っている人で、灸治療も普段から受けていた。代田先生は鎮痛剤であるインダシン座薬をオーダーし、看護士が肛門に座薬を入れた。すると数分後、患者は苦しいと叫び出した。あわてて患者のベッドサイドに駆けつけるも、呼吸できない状況に対して打つ手がない。この患者の病気は安定していると思われていたので、8人大部屋にいたのだが、同室患者他の7名は、夜の8時頃だというのにカーテンを閉め、息を殺してどうなることかと耳をそばたてていたのだろう。物音一つたてていなかった。

間もなく大便が漏れると叫び出した。その直後から意識消失しチアノーゼとなった。私にとって死ぬ間際の人を見たのは初体験でもあり衝撃だった。結局インダシン座薬による副作用のせいだった。インダシン座薬のような当たり前の薬であっても、このような結果になり得ることを知った。
 私が「まさか死ぬとは思わなかった」と言うと、代田先生は「俺は死ぬと思ったよ」と言った。その後は死後の処置が行われるが、それをするのは看護士の役割。プロとして粛々と自分の仕事をこなすのだった。ナースステーションの雰囲気は、慌ただしさはあっても悲壮感とは無縁だった。

最近、私は救急外科である渡辺祐一著「救急センターからの手紙」という本を読んだ。救急センターにおける医師の苦悩を書いたものだが、よくあるテレビのドキュメンタリー番組の内容とまるで違った。この医師も非常に言葉使いが悪いので、思わず代田先生のことを想い出してしまった。病棟内や東洋医学科内で内輪中では、代田先生の言葉使いは結構乱暴だったのだ。救急病院では日常的に人が死んでいる。すると普通であればやりきれない想いがして、厳粛な気持ちになるものだろうと考えたいところだが、ナースステーションでは医師とナースが結構冗談を言い合っている。「今晩飲みに行くか?」「行く行く!」などというやりとりのある雰囲気。それを見ていた新人ナースが、「人が死んだというのに、死に慣れるというのも恐ろしいことだ」と思って憤慨したりする。
実はそうではないのだ。医師もナースも死に衝撃を受けた。しかし自分らはプロだから死には慣れている。そう無理矢理自分をだまそうとしていて、その結果、あえて明るく振る舞っているというのが本当のところだと著者は記していた。


4.病棟カンファレンスにて

おもに2年目と3年目の鍼灸師が、分担して代田先生の患者を診させてもらってたが、週に一回、代田先生担当患者の病棟カンファれンスのまねごとをしてもらった。 2年目は4名、3年目は2人程度の入院患者を担当した。その時、この一週間の病状を報告するのだが、そのときカルテを見ることは禁止された。自分の担当患者くらい、重要点は記憶しているのは当然だろうとする立場からであった。研修生は自分の担当分だけ理解していればいいのに対し、元々は代田先生の入院患者であって、その数は二十名程度にもなったが、現在の処置、検査値を本当に記憶していることに仰天した。こんな頭の良い人はいるのかと思った。このようなカンファレンスは三井記念病院のレジデントで行われているというが、それはエリート医師の方法であって、つくづく自分の頭の悪さを思い知った。


5.代田先生の当直の夜の楽しみ

夜の病棟回診は午後8時頃から始まる。玉川病院には7つの病棟があって、当直医と婦長はこれを順番に回り、看護士から急変しそうな患者に対する状況の報告を受ける。その時、東洋医学科2年目の鍼灸師数名も金魚のフンのようについていく。こうした機会は月に3回程度あった。夜、救急患者が来た時は、守衛さんに東洋医学科にも知らせてほしい旨を伝えておく。
代田先生に時間的余裕がある時、夜の回診終了後、医局に行って酒をごちそうになりながら色々な雑談ができたのは楽しい思い出であった。代田先生は信州大学医学部在籍時、2年生から空手部の主将をしていた。対外試合では相手の打撃がモロに自分の命中しても、痛い顔を見せなかったとのこと。フルートも学習したが、上前歯に隙間があって息がもれて具合悪いので、前歯の隙間を埋めるよう金歯をつくったといって、実際に金歯をみせてもらいもした。学友の前で、本邦初公開などといって得意になったいたという。
そばにいるだけで、こちらが楽しくなるような雰囲気だった。

 

中髎穴刺針の適応症(北小路博司氏の研究)ver.1.2

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※令和6年4月11日付けで、カマタ様から当院に11000円のお振込がありました。おそらくCDテキスト代金だと思いますが、カマタ様の住所・電話が分からず、CDをお送りすることができない状況となっています。恐れ入りますが、Eメールにて住所・電話をお知らせください。早急に商品をお送りします。

1.八髎穴の適応

針灸治療において、八髎穴では、次髎穴と中髎穴の使用頻度が高い。一般的に仙骨神経叢の構成はL4~S4脊髄神経前枝からなるので、この代表刺激点としてはS2後仙骨孔部に位置する次髎を使うことが多い。また骨盤神経(副交感神経)と陰部神経(体性神経)は、ともにS2~S4を起始としているので、代表刺激点としてS3後仙骨孔部にある中髎を使うことが多い。
ざっくりいうならば、整形外科疾患である坐骨神経痛には次髎を用い、泌尿生殖器科や婦人科疾患には中髎を使うことが多いといえる。

※ただし木下晴都著「坐骨神経痛と針灸」には、多数の座骨神経痛で来院した患者に対し、腰殿仙骨部で座骨神経痛治療に使用することの多いと思える経穴を10穴程度選穴して治療効果を検討した。その結果、①浅刺よりも深刺が効果あったこと、②どの穴も大なり小なり効果があったが、次髎だけは悪化した、との結果だった。次髎に深刺置針をすると、かえって坐骨神経痛が悪化することがあると記されているが、その機序についての考察までは記していない。  

ところで中髎に刺針して、骨盤神経や陰部神経を刺激するとしても、実際にはどのような疾患に対し、どの程度の効果が期待できるのか、という疑問は以前からあったのだが、どれも自分の臨床経験で語られてきたに過ぎなかった。

この問に対して、北小路博司氏(明治鍼灸大学)は、一連の精力的な研究を継続して行い、かなりの回答を与えてくれた。この内容を総括的にみるには、「鍼灸臨床の科学」医歯薬出版刊の、<泌尿・生殖器系障害に対する鍼灸治療>が適していると思う。その結果をかいつまんで紹介し、若干の解説を加える。

 

2.中髎の解剖学的特徴

仙髄排尿中枢(S2~S4)に位置する。これらは骨盤神経(副交感神経)、陰部神経(体性神経、自律神経系)の起始する部位で、膀胱、尿道(外尿道括約筋)、および性機能に深く関係している。

 

3.中髎の刺針と刺激方法

第3後仙骨孔に入れるのではなく、第3仙骨孔付近の仙骨後面の骨膜を刺激する。

※上記の刺針を北小路博司氏が提示したヘリカルCTで見ると、確かに仙骨前面に沿うように刺入されている。内臓にまで刺入されていないことも確認できるが、沿うように刺入することは意外に難しく、できるだけ仙骨骨膜をこするように刺激することでもよいだろう。


4.中髎刺針の臨床成績  

1)切迫性尿失禁

神経因性の過活動性膀胱患者の最大尿期時膀胱容量が増加傾向。切迫性尿失禁患者の60%が、尿失禁の消失ないし改善した。中髎刺針は膀胱容量を増加させる傾向がある。 無抑制収縮を抑制させる傾向がある。

2)前立腺肥大症(第Ⅰ期)

前立腺肥大症第Ⅰ期に対して、週1回の中髎刺針を行い、平均6回あまり施術した。夜間の排尿回数減少、および昼間排尿間隔の延長がみられた。ただし治療終了後は元に戻る傾向があった。

3)排尿筋、外尿道括約筋協調不全 

神経因性膀胱の一タイプ(膀胱機能正常、尿道機能は過活動)で、主訴は排尿困難。6例中、4例で排尿困難が消失、1例は改善した。初発尿意、最大尿意および膀胱コンプライアンスは不変。残尿量の減少も5例でみられた。

4)低緊張性膀胱による排尿困難

神経因性膀胱の一タイプ(膀胱機能が低活動、尿道機能正常)で、主訴は排尿困難。
の者。7例中、1例に排尿困難の軽減がみられた。中髎の鍼治療によって、排尿筋の収縮力を高めることはできなかった。

5)勃起障害

心因性9例、内分泌性8例、静脈性3例、糖尿病性2例、神経因性1例、前立腺症1例の計26例。早朝勃起は全症例に対して改善。性交時の状態は65%が改善(心因性33%、内分泌性88%、静脈性100%、糖尿病性50%、それぞれ改善したが、神経因性その他は不変)。心因性インポテンツが、他の原因によるインポテンツと比べ、予想外に有効率が低い。
註:これはバイアグラと同様の傾向である。


6)Ⅰ型夜尿症(膀胱内圧上昇時にも、浅い睡眠に移行するも覚醒に至らないタイプ)

※Ⅱa型は脳波上、覚醒反応が生ぜず、深い睡眠のまま夜尿する。Ⅱb型は膀胱に生じる無抑制収縮を原因とした膀胱機能障害であり、深い睡眠のまま夜尿する。
薬物療法無効の8例。週1回施術で平均5回強治療。夜尿出現率が10%以上改善した者は4例、10%以下の無効例は4例だった。有効例はすべて初発尿意(膀胱にどの程度の尿が溜まったら尿意として自覚するか)が改善した。機能性膀胱容量の増大と初発尿意の延長が、夜尿症の改善に関係あるらしい。

※最新の知見では、夜尿と睡眠の浅深は無関係であることが分かった。つまり上記成績は、Ⅰ型夜尿症に限定する必要はないであろう。 

 

5.中髎刺針の総括

中髎穴刺針には、つぎのような作用がある。

1)膀胱括約筋緊張を緩める →膀胱容量を増加するので、尿意を減らし排尿回数を減らす。
2)膀胱容量が拡大するので、夜尿が発生する時刻を遅らせる。
3)尿道外括約筋の緊張を緩める →外尿道括約筋の過緊張を緩めることで排尿困難を改善。
4)勃起障害を改善。だたし心因性の勃起には有効率が低い。

※このブログを発表したのは、2006年11月のことだった。あれから約15年経過した。この間、泌尿器疾患患者を扱う機会も百症例以上あったとは思う。これらの患者に対して中国鍼で中髎から斜刺をしてみたのだが、残念ながら、あまり有効だったとの感触は得られなかった。現在、中髎刺針しながらハコ灸を追加したり、陰部神経刺針パルスをしたり、手を変え品をかえつつ、有効性を高める努力を継続中である。以前、迷走神経は口から胃にかけての領域に副交感神経作用をもたすとされていたが、最近になった迷走神経の枝は大腸まで達していることが明らかになった。骨盤内蔵を副交感神経支配するのはS2~S4の骨盤神経である。


6.中髎深刺

勉強会の席上、中髎深刺が有効だったとの報告があった。筆者はこれまで中髎から直刺深刺することはあったが、しっかりした企図をもった治療でなかったので、馬尾性間欠性跛行患者に対して、従来からの陰部神経刺針に加え、新たに3寸#8針を使って、中髎から深刺8㎝ほど行ってみた。すると深い処で響くという訴えが得られた。これも陰部神経刺激となるが、同時に骨盤神経叢を刺激している。深部には直腸があるので、便秘や肛門痛にも効果あるかもしれないと考えている。しばらくの間、追試してみたい。

 

後頸痛に対する針灸治療の総括 ver.1.4

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シンプルに私の行っている後頸痛の針灸治療を整理してみた。

2018.9.7で「本稿での後頸部の経穴位置と刺激目標」ブログ(以下)を発表した。今回はそれから6年経た現在の進捗状況である。

https://blog.goo.ne.jp/ango-shinkyu/e/813c479992742718841d4e2777582ff0

 

1.胸椎・腰椎部筋の構造と針灸治療方法のおさらい
     まずは背腰部固有背筋を整理し、頸部の固有背筋と比較する。

起始・停止とも背部にある筋を固有背筋とよび、脊髄神経後枝支配である。胸椎と腰椎における固有背筋の構造は、浅層には起立筋があり、棘筋・最長筋、腸肋筋に細分化される。深層には横突棘筋があり、半棘筋・多裂筋・回旋筋(長短)に細分化される。
   

頸椎では頭・頸半棘筋が、胸椎は長・短回旋筋が、腰仙椎では多裂筋が発達している。横突棘筋の機能は、上下椎体間の静的安定を保つ役割と、脊柱運動(前後屈や左右回旋)の際、生理的範囲を越えた動きをないよう捻挫しないよう制限をかける役割がある。脊柱を動かす筋は、棘筋・最長筋、腸肋筋といった浅層筋であるが、これらは背腰痛を起こすような障害はあまり起こさないので、針灸治療上は考慮する意義は薄い。つまり腰痛の治療穴として代表的とされる腎兪や大腸兪は、実際には治療穴として使う機会はあまりない。
   

背腰痛の針灸臨床の場合、症状部の撮痛の発見→脊髄神経後枝興奮エリアの把握→後枝が脊椎傍から出る部への刺針→症状改善という一本道の考え方で成功することが多いので、これは針灸治療定理の一つとなる。背部部一行からの深刺が効く訳は、背腰痛の大部分は、横突棘筋の過緊張が真因だからだろう。

2.頸椎の筋の構造

※上図は以前に筆者が創案したものだが、長らく「脳戸」を「脳空」と誤って記載していた。ここにお詫びとともに訂正させていただきます。
脳戸の外方1.3寸に玉枕、脳戸の外方2寸に脳空がある。
脳戸(督)-玉枕(膀)-脳空(胆)と横並びになる。語呂は、脳(脳戸)のマクラ(玉枕)はからっぽ(脳空)。

頸椎では起立筋に代わり後頭下筋と板状筋が存在している。横突棘筋は胸椎~腰椎と同じように頸椎でも存在している。

1)後頭下筋の機能と刺激点

①後頭下筋は、後頭骨-C2間にある。その主作用は頭の前後屈運動の際、頸椎アラインメントからの逸脱防止がその役割になるが、うがいをする際は、後頭下筋の最大屈曲(25°)、顎をひく際は最大伸展(10°)が必要となり、これは後頭下筋の仕事になる。

②下頭斜筋を除く後頭下筋3種は、後頭骨下項線に停止がある。その代表刺激点は上天柱穴である。天柱刺針では大後頭直筋の下方に入ってしまうので、後頭下筋群に対する治療穴としては 適切な治療穴とはいえない。
C1C2棘突起間の外方1.3寸に天柱穴をとり、その上1寸で後頭骨-C1間に上天柱をとる。上天柱から直刺すると、僧帽筋→頭半棘筋→大後頭直筋と入る。なお僧帽筋は肩甲上部を挙上(肩をすくめる動作)する機能なので、頸部筋としての作用はない。

2)頭半棘筋と刺激点

①頭の前後屈運動の主体となるのは後頭下筋の浅層にある頭半棘筋で、頭半棘筋は頭の重量支持の大黒柱なので太く発達している。
②頭半棘筋の停止は、後頭骨上項線にあるので、治療点としては上天柱のさらに上方の下玉枕になる。ちなみに上項線中央にある外後頭隆起の直上に脳戸穴があり、脳戸の外方1.3寸に玉枕穴がある。脳戸の外方2寸には脳空穴がある。

③後頭下筋は、C1後枝(=後頭下神経)により運動支配を受ける、後頭下神経は知覚成分をもたないので、筋痛を生ずることはない。しかし後頭下筋と頭半棘筋の間をC2後枝(=大後頭神経)が通過して後頭に向かう部なので、後頭下筋の筋コリは大後頭神経痛のワレーの圧痛点になる。

大後頭神経痛の原因の大部分は、頭半棘筋の神経絞扼が原因となる。治療穴は下玉枕または上天柱になる。

 


3)頭半棘筋への効果的な刺針体位

腹臥位で大後頭直筋に刺入するよりも、この筋を伸張させた肢位で刺針すると奏功しやすい。
通常は下図の方法で行うが、この時患者の頭は術者の心窩部に当てる。

下玉枕ともなると、頭半棘筋の直下に頭蓋骨があるだけなので、直刺ではなく斜刺がよい。たとえば左下玉枕を刺入点とすれば、右下玉枕方向に斜刺する。

術者が女性で患者の頭が胸に当たることが気になる場合、下図の方法を使うこともできる。ただし下図では運動針を併用できなくなる。

 

4)頭の左右回旋運動と筋

①頭蓋骨を左右に回旋する主動作筋は、頭板状筋である。頭板状筋は、中部頸椎棘突起と乳様突起を結ぶ筋で、後頸部において頭部回旋の主役である。k頸椎全体での回旋ROMは左右それぞれ60°であるが、うち45°はC1-C2間で行われる。この左右回旋の主動作筋は、おそらく頭板状筋ではないだろうか?
②頭板状筋を刺激するベストポイントは下風池穴になる。風池穴でもよいが、頭板状筋筋腹を刺激するには下風池の方が適している。
ちなみに風池から深刺しても上頭斜筋に刺入できない。なぜなら上頭斜筋はあまりに深い位置にあるため。

 

※下風池はあまり聞きなれない穴名かもしれないが、芹沢勝助は耳鳴時に圧痛がみられるポイントとして本穴を紹介していた。ただし芹沢は、天柱と風池を一辺とした正三角形の頂点と記していた。一側の頭板状筋の緊張も後頭下筋と同じように一側の内耳機能を亢進させる。この左右差のコリの程度の違いが内耳症状を生ずるらしい。


5)頭半棘筋への効果的な刺針体位

頭半棘筋は頭部回旋の主役なので、過緊張している頭半棘筋を伸張させるような動きで痛みを生ずる。治療は、本筋を伸張肢位にして下風池に実施するとよい。


3.頚部横突棘筋の機能と頸椎一行刺針

深層にある固有背筋の役割は、頸椎重量の静的状態を維持する。また頸椎回旋運動での頸椎に加わる衝撃を緩和させることにある。この役割は、胸椎・腰椎にある横突棘筋と同じものである。もしも横突棘筋がないとすれば、脊椎捻挫が多発することになるだろう。

 

1)頭半棘筋への刺針

頸椎一行線の圧痛の好発部位は、頭蓋骨-C1間では下玉枕で、C7-Th1間では大椎一行(別称は定喘・治喘)が代表である。これらの穴は、頭蓋骨-頸椎、そして頸椎-胸椎といった異なった構造物のつなぎ目になるので構造的に脆弱である。
棘突起傍にあるにある横突棘筋のコリ→脊髄神経後枝興奮→腰殿痛症状という病理変化となる。

①下玉枕:上天柱と玉枕の中点。直下に頭半棘筋がある。
②定喘(教科書):C7棘突起下に大椎をとり、その外方5分
③治喘:大椎の外方1寸

頭半棘筋の下方には頸半棘筋と胸半棘筋があり、これら3筋が協力して頭蓋骨の引き上げ、顔を正面に向かせている。いわゆる寝違え時、後頸部だけでなく、Th3~Th7の高さの頸・胸半棘筋に刺入して、頸を動かす運動針を行うことが効果的なのは、この理由によるものだろう。

 


2)C3~Th7一行刺針

この高さにある横突棘筋に刺針する。これは脊髄神経後枝刺激になる。C1後枝とC2後枝は上行性に分布するが、C3以下の脊髄神経後枝は、すべて神経根から外下方45°方向に伸びる。なおこの反応は撮痛点としても把握できる。症状部から内上方45°方向の棘突起との交点にある背部一行線が取穴部位となり、そこから横突棘筋まで深刺する。

 

C3以下の後枝は、神経根から下外方に走行している。とくに後枝皮膚知覚枝は、症状部から脊髄神経後枝走行を斜め上方45°を下行しているので、後頸部~肩背部に、圧痛硬結もしくは撮痛部を発見できたら、その部位から逆に斜上方45°方向と背部一行(棘突起外方5分)上の交点が治療点となる。頸椎一行の圧痛点に深刺すると症状を緩和できることが多い。

施術の際は、側臥位で顔を下に向かせるように指示すると、頸椎の前弯が減少して頸椎一行の圧痛を触知しやすくなる。

     

3)頸板状筋

頸椎回旋は、その3/4が頭板状筋の収縮により左右回旋45°がC1-C2間で行われる。C2-C7間で、それぞれ上下の頸椎間で少しずつ回旋し、それが積み重ねた結果、15°の回旋運動になり、頸椎全体のしての左右回旋はそれぞれ60°が正常ROMである。C2-C7の回旋主動作筋は、頸板状筋になる。
ただし頸板状筋の障害で頸痛を起こすのではなく、回旋し過ぎぬようブレーキをかけているのが横突棘筋で、本筋が過伸張されて頸痛を起こしている。症状部は頸半棘筋にあったとしても、それは頸神経後枝の神経痛によるものであって、神経痛をもたらしているのは頸部一行深部筋であり、頸部一行への深刺が効果的になる。

 

 

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